依子(3)
頭上には、まばらに星が見えた。足元には漆黒の闇が広がっていた。
私は星に向かって落下している。そんな考えたと同時に、世界が反転した。
訓練された体が勝手に反応し、両脇にあるレバーを強く押さえつけていた。
次の瞬間、強烈に地面にたたきつけられたようなショックが続いた。
着地。
内臓が引っ繰り返るような強烈な不快感が襲ってきた。
吐き気が込み上げてくる。
今や星に見たのは、地上にあらかじめ打ち込められていた誘導灯であることも分かっていた。
落下の最中に足元に広がっていた闇は、噴火の黒煙で厚く蓋をされた夜空だった。
真夜中だが、この噴煙の空で星が見えるわけはない。
その「降下用耐性ポッド」を、常備している空挺部隊の隊員たちは、「キラーシェイカー」と呼んでいた。
俗称の由来には、その言葉から連想されるようなロマンチックな要素はまったくなく、
ただ単純に降下中の快適性には一切なんの配慮もされていない、というのがその理由だった。
ポッドの全面が両側に開くと、内部に満たされていた衝撃吸収用のエアが一気に外部に流れ出した。
防塵マスクに送り込まれる酸素がポッドのボンベから外気に切り替わると、
フィルターを通しても強烈な火山地帯特有の硫黄の臭気が鼻孔をついてくる。
それに、熱い。
とにかくポッドから脱出し、地上用装備をチェックしなければならない。
点呼。
上官の声がヘッドセットから響いた。
地上に着地した七人の名前が読み上げられていく。
最後に自分の名前を呼ばれ、依子は即座に返答したが、上官は目ざとく付け加えた。
その右手を治療したまえ。
止血セロファンで処置後、傷口の状態をスキャンしてデータを転送しておくこと。
それぞれポッドから脱出し、装備をチェックしていた七人の隊員たちの動きが止まった。
上官からの指示音声は依子にのみ届いていただけだったが、皆、なにかしらトラブルの気配を感じたに違いない。
依子は舌打ちしたい気分だった。
手袋をはずした右手の甲には一本の赤い筋がついていた。
そこからどくどくと血が流れていた。
すばやく止血用セロファンを巻きつけながら依子は考えていた。
それにしても、ポッドの中でどうやって怪我をしたのだろう?
パラシュート用の操作レバーにこすりつけてしまったのか。しかし手袋にはなんの痕跡もなかった。
そうなると、この傷は密閉された降下用の防護服の中でつけたことになる。
理解できない。
それに、降下中に一瞬見当識を失ったのがショックだった。
今思い返しても、自分がどこにいるのか、判断がつかない瞬間があった。
そんなことは今までに一度もなかったことだ。
「ヨリコ。」
今度は、地上からの高度2000kmからの声だ。アナライザ独特の合成音。
「君の署名でメッセージが記録されているが、確認するか?
発信先も君のポッドになっている。降下中に送られてきている。」
降下中に私が何か記録した?
その奇妙な報告を無視するわけにもいかなかった。
右足の太ももに張り付いたタッチパッドから、メッセージ転送の了解を伝える。
その動作を誤魔化すかのように、
同時に止血セロファンからのデータも転送したが、
いずれにしても上官にはすべて筒抜けだろう。
すぐにアナライザからメッセージは転送されてきた。
右腕のパネルに、その内容が表示されたが、ミミズがのたくったような記号にしか見えなかった。
ミミズの記号の下には、「>当該言語が自然言語である可能性・・・」とあった。
・希望翻訳言語を選択してください。
ヘブライ語の知識など自分には皆無だった。これは苦笑するしかない。
どうやら降下中に、勝手に自分の指が意味不明の言葉をタッチパッドで書きなぐっていた、ということだ。
これで、結局、自傷行為のような傷口とあわせて降下中のパニック障害かなにか、そんな解析が報告されるのだろうか。
結論が出次第、作戦行動からは外され、やんわりと基地に送り返されるのかもしれない。
地上作戦行動に移る。
依子の危惧を無視するかのように、上官の声がヘッドセットに響いた。
それで、はじめて周囲を見渡した。
前方の視界全面を覆い尽くしている黒い山からは、血の筋のようなマグマが流れ出していた。
まるであれは魔の山のように見える。
火口から立ち上る噴煙は小康状態とはいえ、
夜の闇よりもなお黒い。
地獄の火の山とはこんな風景に違いない。
依子は、しかし噴火前の美しい山の姿をかすかに覚えていた。
なおさらそれが、目の前のものと同じ山とは見えなかった。
あれが本当に、あの富士の山なのか。
隊員たちは2列で隊列を組み、歩き出した。山を大きく迂回するように、誘導灯の明かりが前方には続いていいた。
依子の右腕の液晶画面にヘブライ語もどきの翻訳結果が表示されていた。
「水晶塔を見つける者を探せ。
知恵の木を飲みなさい。
その恐れる葡萄の黄泉を封印するのです」