依子(2) 捜査(33)
部屋の中でピアノの曲が流れていた。
枯れ葉が1枚1枚落ちる音のような独特の曲だった。エリック・サティの曲だ。依子はその曲が使われた古いフランス映画を見たことがあった。ピアノの曲が突然途切れた。それでそのピアノが誰かが演奏していたことが分かった。
しばらくして、玄関の前に小柄な女性が現れた。
柏木和美だった。
短く刈った頭髪には白髪がメッシュに流れていた。丸い眼鏡を掛けており、大きな目がその向こう側から穏やかに輝いていた。
肌は老いて皺も刻まれていたが、それを隠そうともしていないので目立つことがなかった。穏やかだが強い意志を持つ目が何よりも印象的だった。
「よかった。来てくれた。」低くハスキーな落ち着いた声で彼女は言った。
「ありがとう、目白依子さん」
それで、もう少しで依子はそこに崩れて泣き出しそうになった。泣き出すわけにはいかなかった。
依子は片手に持ったヘルメットの中に入れておいた2冊の本を差し出した。
「忘れ物です。」
和美はそれを受け取ると、特に英語の本に挟まれた写真を見るとパッと顔を上げ笑顔を見せた。その本を抱きしめるように自分の胸に押し当てた。
「あなたは恩人だわ。もう諦めていた。」
和美は依子の頬に手を差し伸べると、「さあ、顔を良く見せて」子供をいたわるように手のひらを頬につけた。
「ひどい顔色よ。何日も寝てない。そうでしょう?。お上がりなさい。」
依子はL字型の大きな窓に囲まれたリビングに通された。
女優の部屋と同じ作りだったが女優の部屋とは間取りが左右対象で窓の外には湾岸沿いの高層ビル街が広がっていた。遥か彼方の、その中心に栗本重工業本社ビルが見えた。
その反対側の壁側には女優の部屋にはなかった物が全て揃っていた。
壁一面には、ありとあらゆる種類の書籍が乱雑に並べられ図書館の一角のような様相を呈していてた。映画、演劇、小説、雑誌、評論、そしてその隣には数えきれないほどのDVDとビデオテープのコレクションが並んでいた。
コレクションは世界中の映像作品が集められているように見えた。一生かかっても全て見るのは無理だろう。特に棚の一角には、「女優:ねじ巻依子」が出演したTVや映画の資料が揃って並んでいた。出演作の全作品だろうと思われた。
その一角の前に置かれた業務用机には乱雑に広げられた原稿用紙や高く積み上げられた資料の山があった。机の隅には請求書や領収書がまとめられてピンで刺されていた。
机の上には写真があり若かりし頃の高間真一と「ねじ巻依子」の扮装をして赤い布を身体に纏った女優の姿が写っていた。二人は何事か議論し合っているような真剣な表情で見つめあっていた。監督と主演女優。
映画撮影時のスチール写真のようだ。
海側の女優の部屋が「病室」だとすると、こちらの部屋には「生活」があった。その活動の為のカオスと汗のようなものが部屋を支配していた。
部屋の脇には電子ピアノが置いてあった。和美がさきほど弾いていたものだろう。
そして中央には、背もたれの付いた大きな椅子と、その頭部に当たる部分に天井からは筒型の巨大なアンティークドライヤーのような装置が据え付けられていた。
筒型の装置から無数のケーブルがでており、壁側に引き込まれていてその先は隣の部屋に続いているように見えた。
「まず、とにかくあたなは身体を休ませなくては」そう言いながら和美がバスタオルを持って入ってきた。
「熱いお湯に浸かって、身体をほぐして。その後にたっぷり睡眠をとりなさい。」
依子は和美を振り返った。「眠るのは」言葉が続かなかった。
「大丈夫。その装置がある。」和美は巨大な筒型のドライヤーのような装置を指差した。
「あなた達のことは良くわかっているつもりです。高間君からも聞いている。勿論、私の理解の範疇での話だけれど。
その装置は見てくれを気にせず作ったので、なんだか美容院の昔のヘアドライヤーみたいに見えるけど、筒のようなものは超伝導量子干渉計で・・・つまり脳波のスクランブラーと強力な電磁シールド効果を兼ね備えている。」
依子を見た。
「そのベッドでなら、"塔"の夢を見ずにぐっすり眠ることが出来るはずです。」
依子にバスタオルを渡した。
「あなたが、ぐっすり夢も見ないで眠るのは何年ぶりかしら? 30年ぶり?」
依子はうなずいた。
「可哀そうに」和美はそう言うと依子に近づきもう一度依子の頬をなでた。「なんてこと。」そして彼女を抱きしめた。
「さあ、お風呂に入って。ゆっくり眠りなさい。たっぷり眠りなさい。そのあとで、あなたに聞きたいことが、このおばあさんには山ほどあるのよ。」
依子は自分よりも小さな和美に抱かれながらその匂いをかいだ。どこか懐かしい匂いだった。和美はトントンと依子の背中をたたいた。
和美は化粧もしていないのだろう。依子が嗅いだ匂いは人間の匂いだった。
「そして詳しく聞かせて頂戴。あなた達が、どこの世界からやって来たのかを。」