依子(3)戦闘(1)

祖父が車窓から谷底を見下ろしている。
「おじいちゃんは、"たいさ"、と呼ばれていたの。」 
幼い頃の、舌足らずの私の声が響く。
私はベルファウストを出てダブリンに向かう北アイルランド鉄道の電車の中にいる。
大好きな祖父と旅をしている。
20世紀末に生まれたばかりの鉄道だ。
電車はピカピカのロケットのように線路を滑るように走る。
「この電車は遠い遠い海の向こうのJAPANという国で作られたんだそうだ。」
おじいちゃんが少し微笑みながら言う。
「JAPAN?」
「そうだ。ずっと遠い遠い、ここと同じ島国の・・・」
皺だらけの顔になって、おじいちゃんは嬉しそう。
でも直ぐにその顔が曇った。
また雨が降り始めていた。
それはすぐに車窓をたたく滝のようになるのがわかっていた。
私は祖父の膝に上る。
窓枠に手を添えて立ち上がり、祖父に代わって車窓から谷を見下ろす。
深く刻みこまれた谷底を、溢れた濁流がなおも削り取ってゆく。
ネイ湖に注ぐバン川の支流が、またも恐ろしい形相で氾濫している。
「雨はいつ止むの?」私は祖父に訪ねる。
フィッツジェラルド大佐」
祖父の返答の代わりに私の頭上から響いた太い声に顔を上げると、大きな外套に顔半分まで覆われた黒い影のような兵隊がこちらを見下ろしていた。
兵士の外套は雨でずぶ濡れで、ヘルメットからはひっきりなしに黒い雨水が垂れている。
「ご同行をお願いします」兵士が言う。
だが、言葉に祖父は顔を上げようともしない。
だた私の肩越しに車窓の下の濁流を睨むように見ている。
「雨はいつ止むの?」
私は少し怖くなって祖父に訪ねる。
「塔が暴走しているのだ。」祖父の声が震えている。

「マギー・フィッツジェラルド中尉」

それは私の名前だ。
顔を上げると殺風景なトラックの荷台が目に入った。
寝ていたのか。
祖父の夢を見た。
荷台は大きく揺れた。
態勢を整えるかのようなふりをして大きく肩を回しながら前方へ顔回すと、助手席のイラン・ラーモン特技兵がこちらを覗き込んでいた。
フィッツジェラルド中尉、クレメンズ大佐からです。」
彼が差し出す手にスマートホンケースが握られている。
野戦用のそれはゴツゴツと周囲に飛び出たボタンのお陰で大きな昆虫のように見える。
「クレメンズだ。ファイルを送るよ、中尉」
画面がすぐにメールの受信画面に展開した。
ファイルを開くと、不思議な暗闇を背景に、毛に覆われた中に光る2つの物体が現れた。

私はすぐにブレインストームからグレープシティにログインすることにした。
「これは?」と問う。

「なんだと思う?」クレメンツはスマホから音声で答えた。「画像解析によると、野生の鼠だそうだ。」
「鼠?ですか?」

画像を縦に回してみると、そう見えないこともない。

暗闇に光る2つの物体が、鼠の目か?

「特殊戦域のシミュレーションプログラムからのアクセス許可がハックされたらしい。ああーと・・・、対象のコードネームは君の隊の・・007だな。」
「日本製の10式戦車の操縦方法を短時間で習得する必要があります。隊員たちにはシミュレーションプログラムの利用許可を・・・」
「鼠と一緒に訓練しているのかね?」
「部屋は清潔に保たれているようでしたね。日本の自衛隊の宿舎ですよ。ウォルドーフ・アストリアホテルのシャワールーム並みです。」

「このファイルに外部からアクセスした者がいるのだ。」やけに真面目なクレメンツ。笑わないでそう答えた。

「は?隊員の頭の中にですか?」
「アクセス経路は調査中だ。やっかいな問題だ。鼠というのが気に入らん。」
スマホは突然プツリと切れた。
荷台がまた一回大きく揺れた。
今度は地鳴りのようだ。

運転席を覗くと、運転手の肩越しに鉛色の空と富士の裾野が見えた。

 

鼠というのが気に入らん。

あれは彼流のジョークのつもりだったのだろうか。
「大富豪の鼠」という名のテロリストがそれほど気になっているのか。

「それにしても」とマギーはつい声に出した。

007か。またヨリコなのか。

グレープシティにはヨリコがポッドで降下中に受けた傷の記録が残っている。

ヨリコが寝る前に残した記録も。

 水晶の塔。

 知恵の木。

 葡萄の黄泉。

 大富豪の鼠。

 栗本重工業。

 ねじ巻依子。