依子(1)大富豪の鼠(2)
依子は震えながら、布団の脇に置かれた白い箱に手を伸ばした。
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窓が開いている?
いつの間に。
冷え切った夜の空気が部屋の中を動き回っているのがわかる。
明日の洋服はまだ洗濯籠の中のはずだったし、後は従妹の幸恵から借りた寝間着替わりの浴衣しかない。
依子は震えながら、布団の脇に置かれた白い箱に手を伸ばした。
「これね。「女忍者」の衣装なのよ。いや「九ノ一(くのいち)」と言うべきか。」説明していた幸恵の言葉が耳の奥に蘇った。
忍者の衣装・・・
窓のカーテン越しに差し込む街灯からの灯りを頼りに箱を開けると、折りたためられた臙脂色の着物の表面が見えた。
片手でそれをつかんで布団の中に引っ張り込み、両足をバタバタと使って広げる。
その時、カタン、と板が軋むような音がした。
天井だろうか。
ツナギのような構造の臙脂色の服に布団の中で足を通しながら依子は広い天井に目を這わせた。
将棋盤のように並んだ升目を順に走査すると、奥の右端のひと升が黒く欠けているのが見えた。
穴?
チチチ・・・
と、今度は背後から舌打ちのような声を聞いたような気がして慌てて振り返ると、自分の寝顔を覗き込むように据えられた箪笥の上に、何か周囲の闇よりも一段と黒い塊が見えた。
何かいる?
その箪笥の上には、浮世絵が描かれたカレンダーが張り付けられている。
今、その黒い塊は、そのカレンダーの前でうずくまっているようだ。
カレンダーを見上げて、首を傾げているように見える・・・
やがて黒い塊がこちらを振り返った。
暗闇の中でもその小さい眼球が白く光っているのが分かった。
チチチ・・・
あの鼠だ。
「水晶の塔」の中で会った。
依子は服に腕を通しながら、そおっと後退った。
依子の身に着けた衣装は両手両足を通すと後は前面の長いファスナーを上げるだけだった。合理的な構造で助かった。
そっとファスナーを首元まで引き上げると、首の後ろにケープ付きの頭巾のようなものまで付いている。
頭巾も後ろ手にたぐり寄せて頭から被った。
外敵から身を守るように、自分の身体を全て覆ってしまいたかった。
箪笥の上から、鼠の黒い塊の目が2つ光っていた。
依子を見ていた。
こちらのほうが鼠みたいだ。不思議と冷静にそんなことを思いながら依子は鼠と目を合わせながら後退を続けた。目の前の獣からこうして身を隠そうとしているのだから。
その時に、突然、チクり、と手のひらに痛みが走った。
痛みの感じた右手を前にかざして、視界の隅に見るとその手のひらにうっすらと黒い線が引かれているように見えた。
今朝、あの鼠のいる箪笥のペン先で傷つけた跡だった。
傷口が開いた?
「まるで、新しい皮膚が傷を覆っているように見えるのです。本当にお嬢さんの傷は今朝つけたものなのですか?」
それが傷口を診た若先生の言葉だった。
そうだ、私はあわててペンを握り、メモを取ろうとして・・・・
あわてていて・・・
メモは・・・・
「水晶塔を見つけ出し、知恵の水を飲みなさい。葡萄の黄泉を封印するのです。」
ぶううん、と妙な金属の震えるような音がして頭巾が頭に密着するのを感じた。
何が起こったのか、頭に手を添えようとすると、今度はその手首の袖口も振るえるように依子の手首を絞めた。
やがて、シューッツ、と服全体が蒸気で膨れ上がるように一度呼吸すると、再度、依子を柔らかく包みこんだ。
「グレープシティへようこそ」依子の頭の中で声がした。
後頭部の1点から熱い波動が広がり始め、今や頭部全域に広がっていた。
「特殊戦域のシシシシミュレーションプログラムから、特別ににににアクセス許可が再発行されされます」
依子は立ち上がった。
体が軽い。
「どうやら、今は、僕たちが会う1年前らしい。」
もう一度、カレンダーを振り返りながら、鼠がそう言った。