依子(1)−1

依子が襖を開けると、そこには、大きな三毛猫を両手に抱いた男の子が立っていた。
男の子も、猫も、目を丸くして血で染まった依子の右手に釘受けになった。
その背後から、まぁ!と大きな声が響くと、声の主がバタバと階段を駆け上がってきた。
やはり叔母の知恵だった。
その手はどうしたの?
家中に響くような大きな声だ。
その背後からのいきなりの叔母の大声に驚いて猫が男との子の手からとびだしていった。
硬直した両腕の中からの脱出するために猫は男の子の顔をしこたま齧っていった。
痛ててててっ!、
リュウちゃん!、邪魔!、どいてらっしゃい!。
叔母は猫に齧られたままポカンと突っ立ている男の子を追い払うと、
そこから先はあっと言う間に大騒動となった。

叔母の次に叔父の正志が顔を出し、従姉妹の幸恵が隣の部屋から駆けつけてきた。

めったに2階に上がろうともしない祖母の八重まで階段の下から顔を出した。
結局、依子は一言も説明ができないうちに、
怪我をした右手の甲には、消毒液が塗られ、赤チンが塗られ、
指先から片腕全体が覆われるほどの厳重な包帯で保護された上に、
丘の上の病院まで叔父の運転する軽トラックで送られることになった。

3人乗りの軽トラの運転席には付き添いの名目で従姉妹の幸恵が乗り込んできた。

あたしがついてるから大丈夫だよ、ヨリちゃん、
それにしても兄貴のやつ、あれだけくだらない道具は片付けておけ、って言いつけたのにまったく、もう

従姉妹の幸恵としては、今東京に下宿している依子が寝泊りしいる部屋の主である兄が今回の災難の全ての元凶である、と決めているらしかった。
依子としては、今頃は東京の予備校に通い浪人生活を送っている何も知らない従兄弟に同情するしかなかった。
それにしこたま猫のミィに顔を齧られた後、この騒動から蚊帳の外に追いやれていた幼いリュウくんにも騒動の間に声をかけられなかったことを後悔していた。

依子が夕べ遅くに、この母の実家である矢島家についた時、
矢島家の飼い猫のミィの顔を見たい、といったのを、まだ起きていた小学生の隆三は聞いていたに違いない。
それで朝一番に、三毛猫のミィを抱えて叔母よりも先に依子の寝泊りしている部屋を訪ねたのだろう。

けれど丘の上の病院に行く、というのも、実を言うとちょっとした楽しみがあった。

丘の上からは、勝沼町の葡萄畑が一望に見渡せた。
葡萄畑の緑の絨毯が周囲の山をきめ細かく覆い、その向こう側には甲府盆地が広がっていた。
そして、それらを抱きかかえるように、背後には、頂にまだ雪を積んだ富士の山が見えた。

そのパノラマは、どのような景色よりも依子を虜にしていた。

丘の上の病院で、厳重な包帯を解かれると、傷口は、しかしほとんど消えかかっていた。
腕に残った乾いた血痕を丁寧に拭うと、それで治療らしい治療もせずに診察は終わってしまった。
ただ、その怪我の様子を見た穏やかな笑顔で治療することで幸恵が太鼓判を押していた若い医師は、
もう一度明日に精密検査をしたい、と神妙な声で言った。
傷は心配ないが、どうも様子が変だ、
傷口には、本当に、消毒薬と赤チンだけで治療したのですか?
医師は、叔父に尋ねた。

あと、念のためオロナインH軟膏を傷の周囲に塗りました!
と、聞かれもしない幸恵が胸をはって答えたが、

医師は、答えた幸恵に、期待する笑顔を見せることもなく、叔父に言った。
まるで、新しい皮膚が傷を覆っているように見えるのです。
本当にお嬢さんの傷は今朝つけたものなのですか?
まるで1ヶ月前に治療した傷口のように見える。
若い医師は、不思議なものを見るような、厳しい顔をくづさなかった。