依子(3)−2 日本上陸までの経緯

依子たちの前に現れた陸上自衛隊駒門駐屯地は、まるで、吹雪の中の建物のようだった。
だが雪とは違い火山灰は溶けて流れることはしない。
建屋の屋根に積もった灰は雨を吸い込むと石膏のようにすべてのものを包んだまま固まりはじめ、いづれ中身を押しつぶすことになるだろう。

駐屯地の門らしき場所に近寄ると、黄色いフォグランプが灯り、その明かりが依子達をとらえた。
七人の隊員達は一瞬緊張したが、やがて彼らの光の中に基地の門側から軍服の3人が歩み寄ってきた。
「そのまま待機」頭の中に声が響き、同時に上官が1歩進むと歩み寄ってきた3名が敬礼をする。
中の一人が進みでてきた。
国際活動隊の上村です。代表でお迎えに参りました
マスクを外して地声で名乗った。
アメリ海兵隊のマギー・フィッツジェラルドです。
上官が返礼した。
マギー中尉。報告は受けております。こちらにどうぞ。
この状況下で代表者を迎えに出すのは、いかにも自衛隊らしい、と依子は思った。

依子は彼らの後を一歩一歩づつすみながら、なつかしい建物を見返した。
この駐屯地は訓練で一度訪れたことがあった。その頃の記憶と比較すると、ずいぶん小さく感じた。

依子は、少しの間、自分個人の回想に浸るために、頭の中のノートは閉じ、ラジオだけをつけたままにした。
こんな風に頭の中で小物を操作するようなイメージを描くことで、依子はグレープシティとつながっている。
このイメージの作り方は人それぞれだ。その時の状況にもよっても変えることが出来た。
装着しているハードウエアのヘッドセットを使っているイメージを思い描く時もあれば、昔ながらのPC用キーボードとモニタを登場させる時もある。
それらのインターフェースを脳内で表現する小道具が、皆、どこか古めかしい小道具が選ばれるのは、脳と感覚器官がいわばアナログ回路だからだろうか。

しかしなによりも素晴らしいのは、視覚情報も符号化して転送できることだった。
ペンタゴンのサーバに蓄えられたデータベースで、アクセスが許可された範囲ではあるが、見る物すべてを、瞬時に自動解説してくれる頭をもつことができた。

依子の日本での生い立ちは戦争の記憶とともにあった。
北朝鮮崩壊に伴う朝鮮半島の動乱が起きたのは依子が中学生の時だった。
多国籍軍が乗り込み3日間で終結した戦争とはいえ、それが戦争であることに変わりはなかった。
依子はその戦争で海上保安庁に勤めていた父を亡くした。

その後、東京で働く母と離れ、山梨の勝沼町で、祖母と2人だけで生活した。

父の恩給もあり、暮らしは決して苦しくはなかったが、か細い祖母との生活の中で、依子は自然と「これからは自分の身は自分で守らなければならない」という思いにとらわれていった。

依子の成長とともに、その観念も成長した。

海を見れなくなったのも寂しかった。しかし、春から夏にかけての緑の平野は、祖母と二人暮らしとなった依子を何度も慰めてくれた。

それにあの素晴らしい緑の絨毯のような葡萄畑。

山梨で過ごした高校時代には戦争以来盛んになった武道部に入った。
大学進学と同時に東京に再び出たが、その時に祖母が亡くなり、祖母と過ごした山梨の家は引き払った。
大学では、生体電子工学を学んだ。在学中に都内の武道道場に入門し、武道の修行もつづけた。

半島では、戦争の終結に伴う大量の難民流出問題と、戦後の半島統一に向けた、韓国、中国、ロシア、アメリカ、そして日本の思惑が交錯して燻り続けていた。
特に日本はその燻りが小さく破裂する舞台となった。
日本国内では、半島の権利を少しでも得ようと動く大国大使館へのテロが頻発した。

道道場の先輩に自衛隊への入隊を勧められた時、依子は、はじめて自分が父親と同じ道を進んでいることに気付いた。

卒業後、陸上自衛隊に幹部候補生として入隊した。
普通科で部隊勤務し、レンジャー資格を得た。
そして同じ普通科の男といつか結婚の約束をした。
しかし、特殊情報部隊創設のため、グリーンベレーに一年間留学してみないか、という話を上官から聞かされた時には、あっさりと日本での結婚生活を捨て、志願したのだった。

「生体の脳から直接情報通信できる機能を備えた特殊情報機器を装備した部隊。」 その部隊が「ブレインストーム情報部隊」だった。


その1年間の留学が残すところ1か月となった時、日本で、東海地震発生のニュースを聞いた。

その時、依子はフィリピンの米軍基地にいた。

震源地は駿河沖、駿河トラフと呼ばれる細長い溝状のプレート境界。マグニチュード8。

地震の発生により、死者は約1万5000人、10メートルを超える津波で約50万棟の住宅が全壊。経済被害は約81兆円。
予想されて置いた連動型ではなかったことと、国内の原子力発電所のほぼ半数が国内テロを警戒して停止しており、関東地方での設備が、再構築されてる最中のために停止していたのは不幸中の幸いだった。
しかし、東京から名古屋での太平洋側では、ほぼ全域交通機能は麻痺状態に陥った。

依子は日本の母とは連絡が取れなかった。

東京での首都機能は麻痺し、震災から1週間後には、大阪に日本国臨時政府が作られることになった。
東北地方に首都機能を移転する計画もたてられたが、かつての東北大震災の記憶がそれを阻んだ。

この臨時政府設立のために、政治家や官僚の大移動は日本海側の交通機関を通して行われた。
半島戦争終結後のこの厄災に、国際世論は同情したが、その間も太平洋側では大量の被災者たちが避難生活を強いられていた。
おまけに、この首都機能移転の大移動の最中、日本政府公用車が一人の少年をはねるという事故が起こった。
この少年は日本海側にあった半島からの戦争難民キャンプの少年だった。
キャンプでは暴動がおこり、それを収集する術も見つからないうちに、防衛大臣の難民への差別発言問題がおこった。

世論は、やがて日本海側に続く政府要人の黒い公用車の列を「鼠の大移動」と形容する批判論調に変わっていった。

この東海地震から半月後、ようやく大阪での臨時政府が形を整えた頃、唐突に、富士の噴火活動は始まった。
地震後、50%程度の滑走路をなんとか確保できていた東京羽田国際空港、及び成田空港も、この噴火の影響で全面的に使用不能となり、噴火が頻発するうちに、結局、関東平野上空での民間機の飛行は不可能になっていった。

震災で瓦礫の山となった東京都内には、10cm以上の火山灰が降り注いだ。

震災の復旧どころではなかった。こうして、大阪臨時政府は、富士の噴火によって、関東地方との通常の連絡手段を失っていった。

富士を境に、日本列島が南北に分断されていた。

防衛庁幹部が、臨時政府は関西にあり、防衛大臣直轄の自衛隊部隊である中央即応集団はいづれも関東に集中しており、空自と米軍による共同統合運用調整所も、依然、東京の米軍横田基地にあること気づいたのは、こうした事態が明らかになった後のことだった。

ロシア軍が災害派遣を名目に、日本国臨時政府の要請もなく北海道に向けて南下を始めた、というあまり根拠のない情報が関西地区で広まるにつれ、結局、日本国臨時政府は全面的に米軍に支援を要請するほかなかった。
もう一度北上する気力も体力も、日本政府には残されていなかった。

一刻も早く、富士周辺の中継基地機能を回復し列島の通信機能分断状況を回復しなければならない。

こうして、依子たちは、フィリピンの米軍基地から空母で日本に向かった。