依子(1)大富豪の鼠(1)

依子はまた暗闇の中で目を開いてしまった。何度目だろう。どうしても眠れない。

枕元の目覚まし時計の蛍光で塗られた針はもう2時を回っていた。

明日にはこの幸恵の家を立ち、母の待つ立川の実家に帰る予定だった。東京行の特急は、甲府駅を昼過ぎに立つ予定ではあったが、最後の日ぐらい朝から叔母の家事を手伝うつもりだった。

早く寝なければ、と何度目かの寝返りをうつと、ふと布団の脇に置かれた白い箱が目に入った。

「これね。「女忍者」の衣装なのよ。いや「九ノ一(くのいち)」と言うべきか。」

箱の中には幸恵の友人が「のど自慢」特別健闘賞で獲得した景品が入っていた。真っ赤な忍者の衣装だ。

結局、その「景品」の処分に困った男の子の友人は、夜祭りで会った幸恵に押し付け、幸恵は何となく依子に渡し、抱えて運んできた依子がそのまま無意識に自分の部屋へ持ち込んだのだった。

衣装はお祭りの「のど自慢」会場で宣伝していた新作映画で、その主人公の女優が着ているものらしい。映画の題名はすっかり忘れてしまった。

そんなことより、あの「水晶の塔」の中での出来事のせいで、一刻も早くその場から逃げ出したかった。

あの感触。まだ手に残っている。

つい、また布団から両手を出して顔の前に広げて見てしまう。

二階の寝室の窓から差し込む街灯の灯りが、部屋の天井に斑の模様を描いていたが、それを覆う依子自身の両手の向こう側にまざまざと塔の回廊が再現された。

あの拳銃。本物だった。コルト・ガバメント、1911年モデル。「Colt Government 1911A Model」

両手でグリップを強く握ると、オートマチック特有の安全装置が外れ、依子の手の中を跳ねた。

『やめろ。本物だぞ。』男の声が震えながら繰り返す。

ビッ!ビッ!ビッ!、と依子の耳に、突然、不快なブザー音が響いた。

依子は思わず、片手を拳銃から離し、耳を押えた。

『停止せよ。これは警告である』

"グレープシティ専用中継端局 衛星搭載型アナライザ 型名TE400B"と、あの声は名乗っていた。

『その男は、明らかに民間人である』

避けたテントのメッシュの窓から、再び、強い夜風が依子を正面から吹き抜けた。

風が吹きつけるテントの裂け目の向こう側に、三角形に切り取られた星空が見えた。

『あなたの行動は、軍規を違反した疑いがあります。グレープシティより強制的にログアウトされます。』

私は何をしていたのだろう。目の前で怯えている男。その男に拳銃を突きつけている自分。依子はその状況を反芻した。

あの時、背後から、今度は、カタカタと音がした。振り返ると、例の大きな鼠がいた。大きな目をクリクリとさせながら、キーキーと鳴いていた。依子に向かって何かを訴えかけているかのようだった。

「私に話しかけようとしているのだろうか。」

今度は、館内の席の下でうずくまっていた大きな鼠の姿を思い描いた。鼠の黒い塊の目が2つ光っていた。依子を見ていた。

「依子、僕が分かるか?」その時は鼠はそう聞いた。「高間くん」と、私は鼠をそう呼んだ気がする。

「高間君、ここはどこ?」と、依子は呟いた。

「しーっ、静かに。さぁ、脱出しよう、さあ」鼠の声は依子の頭の中に直接響いた。

「ここは、2つ目の映画だ。依子、覚えているか? 「ねじ巻依子」が人間に戻って、やってきた「最初の町」だ。」あの鼠は確かにそう言っていた。

その時、ガタン!と入り口の障子戸が風で揺れた。夢の中から突然引き戻されたように感じて、依子はびっくりして半身を起こしてしまった。

部屋の窓がわずかに開いていた。

そこから冷たい夜風が吹き込み、部屋を一周して依子を囲んだ。

依子は震えながら、布団の脇に置かれた白い箱に手を伸ばした。