依子(2) 捜査(31)

依子は再びバイクを走らせた。首都高の都心環状線に入ると上空を旋回するヘリコプターの数が目立つようになった。そのまま湾岸線方向へ向かうと、やがて高速沿いにそのビルが姿を現した。

栗本重工業本社ビル周辺は今やまるでヘルコプターの編隊に攻撃されている要塞のような有様だった。TV局のヘリに違いない。

本社ビル屋上の、天空に掲げられた「π」のシンボルマークを狙って撮りに来たのだろう。
このグローバル企業の会長宅で、不法侵入されたとはいえ血生臭い抗争のような発砲事件が起きたのだ。おまけに撃たれた侵入者は、その会長個人と過去に遺恨を持つ元映画監督で女優の妻を亡くしたばかりだった。スキャンダルの匂いを嗅ぎとらない報道記者はいないだろう。社会部、経済部、芸能部らの記者らが入り混じって取材攻勢を仕掛けているに違いない。

それでも栗本重工業本社ビルの異形は難攻不落の要塞に見えた。

本社ビルを脇に見ながら依子はバイクのスピードを上げた。首都高は朝の混雑のピークを過ぎていた。


ブリッジの向こう岸にうたれた楔のような有明タワーマンションは、近づくにつれて船の帆のように広がっていった。
タワーの周辺は芝生公園になっており見通しがきく。

エントランス脇の駐車場入り口を目指すと、まず灰色のキャディラックが来客用駐車スペースに止まっているのが依子の目に入ってきた。
軍人というものは身を隠せと命令されな限り周囲から浮いて目立つことにまるで頓着しないものらしいと依子は考えた。
パトカーの姿はなかったが明らかに警察車両と思われる窓の付いていない小型バスがマンションの影に寄り添うように止められていた。住人の荷物の運搬用に使われる業務用の大型エレベータがそちら側にあるのに違いない。

依子がバイクを降りヘルメットを脇に抱えたまま2Fのロビーに上がると、その片隅にあるソファーに座り、サミュエル・クレメンズは一人で小さな手帳のようなものに一生懸命何かを書き込んでいた。

周囲に注意を払っている気配はなかった。が依子が近寄るとその顔を上げた。ニコニコと笑顔を見せると手帳を持ったまま片手を上げて大げさに手を振って合図をした。その手帳の表紙には「SUDOKU」と書かれていた。

「遅かったです。残念ながらあなたの依頼人の荷物はもうほとんど運び出されてしまった。書類やら、PCやら、ベッドまで。」
クレメンズは丸くて大きな青い目をくるくると回して見せた。

「今朝あなたが去った後、直ぐに私は高間サンに関するニュースを聞いたのです。それでここに来た。あなたを待つために。話の続きをしたくてね。」
手帳をポケットにしまうと、のっそりと立ち上がった。

「しかしなんといことか! 残念なことに私はもうすぐここを離れなければならないのです。命令です。命令が全て。それが我々の宿命だ。
これから私は直ぐに富士の麓のカントリータウンに移動しなければならない。
世界的に有名なワイナリーがある素敵な観光地だと聞いています。
ああ、あなたは勿論その地をご存じでしたね。
私からのつまらない説明の必要はない。

私はそこで卑怯者のガンマンに背中を撃たれた高間サンから事情聴取をしなければならない。彼は今や瀕死の状態です。事情聴取には時間がかかるでしょう。・・・場合によっては、私は高間サンの身柄を拘束し、我が国に連れて戻らなければならない。」

依子はクレメンズの前に立ちはだかった。
「強制的に連行する権利が米国にあると言うの?」

クレメンズは笑顔を崩さなかった。
「彼は我々が追っていた南米に拠点を持つ反社会的勢力から莫大な資金を盗みとった疑いがあるのです。それはそれは巧みな方法でしてね。

オンラインの口座を偽装し、奴らに何万ドルも振り込ませた挙句に入金というボタンを押したとたんにその口座は霧のように消えてしまった。

バンザイ!、と言いたいところですが、その手法が問題だった。偽装された口座を持つ銀行は、我が国の一部組織も利用しているものでした。
次回は我が国の資産が標的にされるかもしれない。」

「そんな理由で連行できるわけがない」依子はクレメンズを睨んだ。

「実は我々はネット上に残っているわずかな痕跡を追いかけたのですよ。まず偽装された口座は同じ銀行に開設された別口座を利用して作られたものでした。それは日本のTV番組制作会社が海外TV番組制作用に開設していた口座だったのです。もっともその事実が分かった時には時すでに遅し口座はきれいに解約済みでしたがね。

次に我々は同盟国たる日本政府に事情を伝えて協力して継続捜査を行った。

例によって、その調査は膨大な量の「ゴミ集め」から始まりました。
そのTV番組制作会社関連の周辺から、ありとあわゆる廃棄物が一か所に収集されて分析された。

同業者のあなたもこの方法はよくご存じでしょう。

大変根気のいる仕事です。

そして彼らはそのゴミの山から大変興味深いものを見つけた。

それが高間真一サン宛の保険契約書のコピーの断片でした。
中身はある映画フィルムに関する保険契約書です。

書類の断片には保険契約項目ごとに分割されている数種類の保険証のナンバーが記載されていた。通常であればその「ナンバー」の正体に気づくようなことはない。
ところがどうにもその「ナンバー」には不思議な特徴があった。

桁数が大きすぎるのです。

さて、その「ナンバー」を保険種別ごと順番に並べ変えるとどうなるか。そこには当然また「ナンバー」が表れた。

つながれた「ナンバー」は10進数にして実に77桁の1つの巨大な「素数」でした。

その77桁の素数を掛け合わせて出来る膨大な桁の合成数は、標的にされた銀行が利用しているオンラインの公開鍵番号だったというわけです。」

「偶然かもしれない」と依子。

「だとしたらまさに奇跡だ。」クレメンズは首を振った。
クレメンズの顔から笑顔が消えていた。

「イエスの復活以来の奇跡になるでしょうな。公開鍵番号はその名前の通り銀行から全ての利用者に公開している鍵です。その暗号鍵で作成された暗号文の解読には、しかし、公開鍵番号を逆に因数分解してその素因数を割り出す必要がある。暗号解読を試みる者は、その77桁×77桁、実に5929桁の合成数素数因数分解しなければならない。」

「この77桁の素数を割り出すための計算にはスーパーコンピュータで20年以上かかると言われています。だからこそ暗号足りえる訳ですが。

・・・もし仮にこの解読を瞬時にできるアルゴリズムが発明されたとなれば・・・世界の金融市場はパニック状態に陥るでしょう。
これが彼を我が国に連れて戻らなければならない理由の1つです。」

クレメンズは声をひそめた。
そして秘密を打ち明けるような調子で続けた。

「勿論、次に我々はその保険会社を調査しました。しかしながら調査を進めると実際にはそのような保険契約を結んだ事実はなかったことが分かったのです。その保険契約書類自体が手の込んだ偽造だったのです。その保険会社の名前は「東洋損害保険」といいます。あなたは、この保険会社に関してもよくご存じでしょう?」

クレメンズは低い声で唸るように続けた。

「私は本国に連絡した。こう言った。高間真一の身柄を確保する必要はある。だが、本質は別にある!、と。」

クレメンズは身を乗り出した。

「本質は、今、私の目の前に居てじっと私を眺めている。短い黒髪に、不思議な緑色の目の色。彼の映画の主演女優。」

クレメンズはまた笑顔に戻った。

「残念ながら私の話はまったく受け入れられませんでした。私の上司たちは高間がさらに何かの組織の一員であり、その暗号解読キーもあらかじめ銀行側の内通者から手に入れたものだと考えている。

彼らに言わせれば、”目を覚ませ、クレメンズ、東洋の神秘に骨抜きにされた哀れな水兵よ”というわけです。我々は新たな命令に従い、これか直ぐに移動しなければならない。」クレメンズは肩をすくめてみせた。

いつの間にか彼らのすぐそばには屈強な体格の若い男が立っていた。そちらはまさに軍人だった。背広の肩は張り出した筋肉で張り裂けそうに見えた。若い男は小声でクレメンズに耳打ちをした。
それから2人は並んで階段へ急いだ。
ふとクレメンズが足を止め、振り返った。

「そうそう」
「これからわれわれが行くその町ですがね。昼間は確かに平和な観光地ですが今や別の顔を持っているらしい。
あなたの居た頃とはずいぶん変わったのかもしれません。残念ながら。
これから10年後に、その町の近くには最新式の高速鉄道、リニアカーとやらの駅ができる予定とか。ご存じでしたか?

その利権を巡っていろいろ血生臭い事件が頻発しているようだ。
ぐつぐつと地獄の釜のように煮えたぎっているそうです。

あなたは終戦直後に栗本が買い上げた土地をご存じですか。
何やら畑に毒を巻いて奪い取った土地がある、という話を? 
栗本の成功はその土地から始まったという奇妙な伝説を?

・・・それで栗本が牛耳っていた一帯は裏社会で「毒の町」と呼ばれているそうです。・・・誠に残念な話です。

私は先に行って「毒の町」でお待ちしています。」

依子はエレベータに向かった。