依子(2) 捜査(26)

サミュエル・クレメンズは、ミズーリ州ハンニバルで1962年の10月に生まれた。
観光用の蒸気船で働く父ジョンと酒屋で働く母ジェーンとの間に6人兄弟の5番目として。

理科や数学が得意で「将来は外洋で航行するような大型船を設計することが夢」と小学校時代の記録に残っている。だが貧しい生活の中で五男坊を大学まで出す家計のゆとりはなかった。それでハイスクールを卒業すると同時にアメリカ軍に志願入隊した。

1984年に海軍兵学校で数学の学位を取った後、アメリカ海軍の少尉に任官する。

1985年から1990年にかけてアメリカ海軍情報部に所属し海洋監視システム、潜水艦、潜水武器システムに関する音響情報の収集活動に従事した。

1990年8月12日、イラク軍がクウェートへの侵攻を開始した。

翌年1月17日、多国籍軍イラクへの爆撃「砂漠の嵐」作戦を開始する。サミュエル・クレメンズが28歳の時だった。

彼はハワイの真珠湾から「Mighty Mo」に乗船した。戦艦ミズーリだ。

「かつて1945年には空母護衛艦として戦艦大和を撃沈し、また第3艦隊を率いては日本本土に最初の大規模な砲撃攻撃を行った戦艦。」

クレメンズがその艦に刻まれた歴史を聞いたのはの出発が決まった直後だった。

そしてそれは、クレメンズが「日本」という国に興味を持ったきかっけにもなった出来事だった。

戦艦ミズーリは、1991年1月にペルシャ湾に到着。

以降、トマホーク巡航ミサイルを絶え間なく発射し続けた。

サミュエル・クレメンズは、発射されると同時に栓の抜けた風船のように揺れながら飛んでいくミサイルを見続けながら「まるでサーカスで玉乗りの曲芸を見せる熊のようだ」と思った。

帰国後に彼は2度と戦艦に乗ろうとは思わなかった。夜になると硝煙の匂いが体中から匂っているような気がして寝具を何度も取り替えるのが癖になった。

米軍内部で行われた帰還兵士に対してのPTSDの実態調査に、彼の名前が残されていないのは彼が巧みにその診断チェックを潜り抜けた結果だ。

精神分析医の友人が居たのだ。

(だが結局、その友人が残したサミュエル・クレメンズ個人カルテの記録までは消去できなかった。)


依子は自分の頭に押し寄せるサミュエル・クレメンズの情報に溺れそうになりながら、日差しの強い高速道路の路面から視線を上げた。渋滞の車の列が目の前に迫っていた。

しばらく渋滞の列をすり抜けながら進んだ後、サービスエリアで一旦バイクを止めた。少し運転を止めて頭を自分のものに取り戻す必要があった。
サービスエリアは朝食をとる客たちで混んでいたがバイク1台が木陰で休む程度にはまだ余裕があった。

ヘルメットをとると、頭から大量に汗が噴き出ていて、まるでシャワーを浴びた後のようだ。だがバイクのミラーに映った顔はまるで病人のように青く、首筋には鳥肌が立っていた。

木陰で、バイクから降りて体を伸ばし、深呼吸を一つ二つして、それでようやく楽に呼吸ができるようになった。

結局、ついかっとなり「塔」の力を使ってしまった。これでここ3日間の不眠の活動も一瞬にして無駄になったに違いない。同時に自分の持っていた情報も今や「塔」のものとなってしまったからだ。これで「女優の死」も、「フィルムの行方」も、「塔」の知るところとなった。
だが人がいつまでも眠らずに活動することは不可能な以上、仕方のないことだと諦める他はなかった。

気分が落ち着いてくると、なぜ自分はあれだけ怒ってついクレメンズに力を誇示してしまうような愚を行ったのかと依子は考えた。
そして例の映画フィルムが「夢の塊」と呼ばれたせいだと思い至った。
あの映画の「夢の塊」は「まるで夢のように実態のない物」という意味だったから。
クレメンズの誘導尋問に見事に引っ掛かったわけだ。
だが依子本人と映画の関係も、遅かれ早かれ少し根気よく調べればわかる話だった。
高間真一も、高間紀子も、私も、そして言わば2人でダブルキャストした「映画女優 ねじ巻依子」も、幽霊だったわけではないのだから。