依子(2)脱出(1)

目白依子が目を覚ますとまず珈琲の匂いがした。

コトコトとお湯が沸いている音もする。

女性の鼻歌を聞いたような気がして頭を上にあげると自分の頭を囲っている超伝導量子干渉計の縁から、たくさんのケーブルが蜘蛛の巣を頭から被ったように
伸びているのが見えた。

部屋の隅に、パソコンの液晶画面に覗き込んでいる柏木和美の小さな背中が見えて、少しづつ記憶が蘇ってきた。

代わりに、旅先で見た夢の跡のように、妙に現実感のある感触が徐々に自分の肌から抜けていくのを感じた。

あれは夢だったのか。

自分は高間真一と出会った頃の過去の自分の中にいて、そうと思えば彼らに自分のことを伝えることもできた。

あれが本当の過去だったなら、現在までの全てを塗り替える事も出来たのだろうか。それとも、そこから先は現在とは別の世界が枝分かれしていくだけで、結局、現在の自分はここに戻ってくるしかなかったのか。

いずれにしても、ぐっすり眠ることも、自分自身と干渉したような経験も、依子には初めてだった。

「あなたの千里眼の能力は、あなた自身にはどうにも出来ない世界で、あなた自身に起きていることの反映なのかもしれない。」

依子を迎え入れた部屋で、巨大な金属製の筒を依子の頭に被せながら、柏木和美は、そう言ったのだった。

彼女の細い腕でも、装置の巨大な端末は自在に操作できるようだった。

「これは仮説にすぎないのだけれど」と柏木和美は続けた。

「"森の者たち"はとても対称性の強い世界から来た。そこは時間も可逆で巻き戻すことも飛び越えることもできる。エントロピーという概念がない。永遠もなければ始まりもない。」

「彼らの装置は全てをスキャンして記録することが出来る。彼らの世界の森羅万象を。真空のない世界の素粒子のように。スキャンした結果を寸分違わずに再生することが出来る」

「あの塔は、その機能を携えたまま、この世界の過去か未来のある時点でこちらの世界と干渉してしまったのだ、と思っいる。

でも彼らとこの世界を隔てる最もやっかいな問題は、物理的な現象でなくて、精神的な構造のものだったと言える。」

まるで自分に言い聞かせるように、彼女はしゃべり続けていた。

「彼らは"フィクション"というものを理解することが出来ない。あなたたちが彼らの記録装置にプログラムしてしまった物語を、あの塔はこの世界に再生しようとしているの。」

装置を依子の頭に装着し終えると、彼女の顔を覗き込んだ。

「あなたは目白依子でいることも出来る。もちろん。その自意識が失われることはないでしょう。

でも同時に、あなたが映画で演じたように・・・あなたは、と言うか・・・「あなた達」は・・・森の者の目を持つもの「ねじ巻依子」なのよ。」