キャスティング(8)

緒方里美を連れてきた佐藤一馬の車は、彼女を下ろすと、すぐに走り去っていったようだ。

車をどこかに停めてくるためなのか、ただ彼女を送り届けただけで帰ったのか、それとも佐藤一馬の実家はこの近くで一旦引き上げただけなのか。詳しいことは分からない。

僕もそこで、一刻も早く工場へ戻りたかったが、別の事も考えていた。

それは、まだ5月に入ったばかりだと言うのに佐藤一馬が車の運転免許を早々と取得しており、軽自動車とはいえ自由に出来る車を持っているらしい、ということだった。これは記憶しておくべきだ。

移動に車が使えることで、どれだけ映画撮影が楽になることか。ここ数日間の、連休中の簡単な屋外撮影実験で、それは僕が心底感じていた事だった。

もちろん僕も車の免許を取るつもりでいた。
けど僕の18歳の誕生日は8月だった。

仮にこの夏に撮影を行うのなら、時間的な余裕も経済的な余裕もなく、間に合わないかもしれなかった。

それに映画製作自体にだって莫大な資金が必要だ。

フィルム代、その現像代だけでも、高校生のお小遣い金額レベルで賄えるものではない。

生徒会後援というつながりで、もしあの車と制作資金がわずかでも手に入るなら、「生徒会」にも利用価値があるというものだ。

そんな事を考えているうちに、女の子達もとっくに母屋に引き上げていた。

さっさと機織工場へ移ればよかったのだが、身を潜めていた「離れのお風呂」側には母屋の勝手口があり、今、そのドアから矢島幸恵が出てきたものだから、僕はまた風呂場の脱衣場に身を隠すほかなかった。

矢島幸恵は勝手口から出てくると、裏庭への通路にある水道場のシンクの中から、何か丸いものを入れた篭を引っ張り上げた。

それは小さめだったがスイカのようだった。冷やすために置いていたのだろう。

5月にスイカか。ハウス栽培の高級品ということだ。もう少し夏まで待てば、ここら辺でも容易に安いスイカが手に入るだろうに、妙な贅沢をするものだ。

やがて、そのスイカを抱えて矢島幸恵は勝手口から戻っていった。

もう大丈夫だろう。

僕はその水道場を横切り、その先へ、機織工場を目指した。

母屋の台所らしい小窓があいていて、矢島幸恵の頭が見えた。

「でもヨリちゃん、すっかり元気になったね。」という言葉が聞こえて僕は足を止めた。

聞きなれない声だ。緒方里美らしい。「そう、ほんとに。」

「一時はどうなるかと思ったけどね。」そう答えたのは矢島幸恵だ。

さきほど引き上げたばかりのスイカを切っているらしい。

「今はちゃんと食べてるのよね?」

僕は思わず背中を丸めて、その小窓の下に身を寄せた。まるで立ち聞きのようだ。いや、この行為をしてまさに「立ち聞き」と言うのだった。

「果物なら大丈夫なのが分かったのよ。ほら、食べてて、幾ら噛んでも割と味が変わらないでしょう?、果物って。」

「味が変わると、だめなの」

「そうみたい。そうすると不協和音が鳴るんですって。その色も見えるのよね?。

・・・だから果物から、徐々に食べる練習をしたのよ。」

「うわ。大変だったね、それは。」

「まったくね。」矢島幸恵が感慨深げに呟いた。「もう、1年経ったんだよね。去年のあのお祭りから。」

やがてスイカを切り終わった矢島幸恵が小窓を閉めた。頭の上で閉まった音を聞くと僕はそっとその場を離れた。


僕はこうして目白依子の奇妙な秘密をまた1つ知ることになった。

なるほど。

それでこの時期にもうスイカなのか。

目白依子は果物だけを食べて生きていたらしい。

まるでカブト虫のような女だ。

しかし「味が変わると不協和音が鳴る。色も見える。」というのは一体何の事だ。


その時、僕の前に、その猫が現れた。年を取った太った三毛猫で、その背中の毛は年のせいか、ボロボロに抜けていた。

その猫が背中を丸め、目をらんらんと輝かせて、僕の行く手をふさいでいるのだった。

「フーッツ」と鼻息まで粗くなって興奮してる。獲物を見つけたような鋭い視線が正面から僕をまっすぐ見つめている。

なんだ?コイツは? 僕は気味悪くなって、ちょうど勝手口の前で立ち止ってしまった。

それがまずかった。

次の瞬間、猫は、すごい勢いで僕に飛びかかってきた。

犬ならともかく「猫に襲われる」のは生まれて初めての経験だったので、まったく度肝を抜かれてしまった。

あわてて身を丸めると、今度は凄い勢いで爪を立て、背中をよじ登ってくる。

それで、直ぐ脇の勝手口のドアが開く気配を感じると、何も考えずに中に駆け込んでしまっていた。

まるで鼠になったような気分だった。恐ろしいほどの凶暴さだ。


だが、本当に恐ろしいのはその後だった。

その勝手口のドアを開けたのは、なんと、目白依子だった。彼女も先ほどから台所に居たのに違いない。

そして、だぼだぼのシャツとステテコ姿で、背中に三毛猫を張り付けた男(僕のことだ)が、勝手口から飛び込んで来たのを見て、緒方里美はサイレンのような悲鳴を上げた。

その悲鳴に驚いて、猫は飛び去っていったのだが。

最低。出歯亀野郎。」矢島幸恵が緒方里美を抱きかかえながら、僕を見てそう言った。

その簡潔で、あまりにショッキングな言葉に、僕はよろよろと後ずさった。

後ずさった僕の目の前で、するすると、勝手口のドアが閉じていった。

まるで舞台のカーテンが閉じる時のようだった。

僕のすぐ脇で、そのドアを閉める目白依子の口元に、

勝ち誇ったような笑いがうっすらと浮かんでいたのを、僕は見逃さなかった。