キャスティング(9)

そんなわけで、かなり打ちひしがれて、ようやく機織工場に戻った時には、廊下に沿って干された「鯉のぼり」が僕を出迎えてくれた。鯉というより役目を終えて水面に漂っているオスの鮭のようだったが。
女子どもに、こんな風にされるのは君だけじゃないのさ、と僕を慰めているように見えた。

これら僕の一連のドタバタぶりの間にも、英樹は一人で、僕たち二人分の映画のスクリプトをすっかりまとめ上げていたようだった。そろばん教室の長テーブルには、きちんと並べられた原稿用紙が積み重ねられていて、今はどうやらページを振る作業をしていたらしい。

僕の気配で原稿用紙から顔を上げて、「ずいぶん長風呂じゃないか?」と言いながら僕の顔を見すると眉を寄せた。

「なんとまあ。大脱走に失敗した鉄条網みたいな顔をしてるぜ。」

マックイーンにはとても見えない、と言いたかったらしい。しかし笑う気にもならなかった。


ともかく経緯を説明すると、複雑な顔をして
(必死に笑うのを堪えているに違いなかったが)「まあ、タイミングが悪かったね。」と言った。

「冷静になって考えてみれば、君が何か酷いことをしたわけじゃないんだし。

ちょっと驚かせてしまっただけだろ。

"ミス甲府南"の誤解も解けるさ。」


僕は彼のまとめた原稿用紙を覗き込んだ。

「ねじ巻人形の冒険、だ。」

英樹はそんな僕の視線を追って、その題名を読み上げた。

「この題名もなんとかしないと「ピノキオ」と混同されるだろうな。『人形』が『人間』になるためには、まず老いて朽ち果てる細胞が必要だ。これはモラルや理想や万能性を求める話ではなくその逆だ。言わば、”世界一遅いコンピュータ”の開発物語だ。」

英樹はその原稿用紙の束を見下ろしながら少し興奮した様子でそう言った。彼にしては珍しい。

それからふいに、何か思い出したように、また顔を上げて僕を見た。

「あの魔王の呪文の正体がわかったよ。やはりコンピュータ言語だった。」

"魔王の呪文"は、以前に英樹がメモしていた原作のアルファベットと数式が並んでい書かれていた部分のことだ。

目白依子が書いた"魔王の呪文”。

「しかも凄い言語だ。"エイダ”というやつだった。」

「エイダ?」

英樹は小さくうなずいた。

「エイダ。A・d・a。 それが、その言語の名称だよ。

エイダ・ラブレスという世界最初のプログラマーから取った名前だ。」

「人の名前から取ったのか?」
僕は重ねて聞いた。コンピュータ言語というえば、「C」とか「B」とか、単純なアルファベットの識別子のような名前がつくものだと思っていたからだ。

「世界最初の、女性プログラマーの名前から取ったんだ。エイダ・ラブレスは、19世紀に機械式計算機のためのプログラムを書いた。そして詩人のバイロン男爵の一人娘だった。」

バイロン男爵?、・・・聞いたことがあるな。」

英樹はあきれたような顔をした。

「『フランケンシュタインの花嫁』で最初に出てくる怪奇談義の舞台がバイロンの城だよ。その怪奇談義から、フランケンシュタインも、吸血鬼も生まれたのは有名な話だから知っているだろう。バイロン男爵は「吸血鬼」の生みの親だ。その娘が、エイダ・ラブレスというわけさ。」

「吸血鬼の娘の名前なのか。」

「詩人の娘だ。まあ似たようなもんだが。」

英樹は説明を続けた。

「コンピュータ言語の ”エイダ”は1979年に開発された。
勿論、世界最初のプログラマーに敬意を払ってその名前がつけられた。
言語開発の旗を振ったのは米国国防総省だ。
目的は兵器の開発だったからだ。
そのために、”エイダ”は強力な言語機能を持っている。」

「原作に出てくる"生け捕りにした森の者の目"は、どう考えたって特殊部隊のことだろう。
"階差機関"は19世紀のエイダがプログラムを書いた機械式計算機の名称だよ。
残念ながら当時の技術では完成はしなかったけどね。
現代風に言えばペンタゴンの作戦指令本部を仕切るスーパーコンピュータと言ったところだ。」