依子(2) 捜査(25)
その白髪の白人の男はゆっくりと車のフロントを回り、依子に近寄ると店舗前の監視カメラを覗き込んだ。
ふん、と鼻で笑って、また依子を見た。
「バイクとは。驚きましたよ。さて、あなたとお話しできるようになるには、どうしたものかと考えていたんです。
ゆっくりお話しできるチャンスを頂けますか?」
丁寧すぎる言い回しを別にすれば、見事な日本語の発音だった。喋っているとちょっと風変わりな日本人に見えてくる。
「申し訳ありませんが今は先を急ぎますので。」バイザーも開かずに依子は答えた。
バイザー越しの声はくぐもった声になった。無個性に響くので好都合だった。
「そうですか」男は残念そうに眉を寄せると、「それでは仕方ないが」と言いながら上着のポケットから小さなビニール袋を取り出した。
袋の中には白い四角い紙きれが入っている。
「これをご存じですね。あなたの名刺だ。」男はそれをビニール袋ごと依子に差し出した。
広い駐車場に早朝の風が吹きこみ、男の指先でつままれたビニール袋がくるくると回った。男の綿毛のような豊かな白髪もその風で乱れた。
依子はその名刺をビニール袋ごと受け取った。袋の中身は確かに依子の名刺のようだった。
白石探偵事務所。調査員 目白依子。そして電話番号。
「今あなたに調査を依頼している依頼人の男からちょっとお借りしたものです。
しかし、その名刺はずいぶん古いようだ。名刺の紙が変色していますね。さては依頼人とはずいぶん前からお知り合いのようだ。」
依子は手に持った袋の中の名刺を覗き込み首を振って見せた。
「以前に別の方に渡した名刺ではないでしょうか。配った名刺の数までは覚えていません。その依頼人がどなたか分かりませんが・・」
今度は依子の手の中のビニール袋が風に煽られてくるくると舞った。男の白い髪もまた風に乱れた。
「しかし裏に何か書いてありますね?」
男は目を細めて笑ったように見せた。「“If you want anything, just whistle.”」
笑いながら「有名な映画のセリフですな。こんなセリフを言われたら、男だったらたまったもんじゃないでしょうな。」
わざとらしく肩をすくめてみせた。「”イチコロ”と言うやつです。」
依子は首をかしげた。
「残念ながらそれはただの事務所の宣伝文句です。お気に召しまして?」
「とてもね。でも私には手書きのように見える。」
男は依子から視線を外して店舗前の道路を見た。コンビニ前を通り過ぎる車は高速道路入口に次々と吸い込まれていく。
アスファルトが朝の光りを強く反射している。男は眩しそうに目を細めた。
「その名刺はあなたにお返ししますよ。実は、私は、言わばあなたと同業者なのです。
私の事務所は、あなたの事務所よりも少し規模が大きい。部下もたくさん。上司もたくさん。」
そう言いながら、依子にまた視線を戻した。
「同業者同士のよしみで、その依頼人とあなたの追っている”フィルム”について、少しお話を伺いたいのです。」
依子は首を振った。「同業者であればお分かりでしょう。答えはノーです。もちろん」
「ええ、もちろん。・・・では、こうしましょう。あなた達が大切になさっている”夢の塊”についてお話を伺う、というのはどうでしょうか?」
男はまた何度目かの笑顔を見せた。
「あなたのように、お話を創作することはとても出来ませんが・・・。
こう見えて、私も職業柄、結構、"探偵小説"のファンなんですよ。ほら、有名な探偵小説の中に出てくる、”夢の塊さ”という訳で」
依子がヘルメットのバイザーを引き上げた。それで白髪の男は依子の瞳を初めて見た。
アスファルトで反射する朝の光で、依子の茶色かった瞳が縁側から色彩が泳ぐように緑色に染まっていくのが見えた。
男は一瞬息をのんだ。
「アメリカ海軍情報局、国防省情報本部所属、サミュエル・クレメンズ少佐」依子は言った。
「"探偵映画"の間違いでしょう。小説にそのセリフは出てこないわ。」
バイザーを閉じると、エンジンをかけた。
「3歩下がりなさい。足を轢くわよ。」
バイクが、ギュンと一つ爆音を立てると、円を描くように依子の片足を中心に翻った。
クレメンズは後ずさり、それで自分の車に腰を乗せてしまって体のバランスを大きく崩した。
あわてて態勢を整えて、前を見た時には依子のバイクはすでに駐車場から走り去り、高速の入り口に向かっていくところだった。
クレメンズは呆然としたまま、なすすべもなくそれを見送った。
無意識にポケットをまさぐり煙草を取り出して口にくわえていた。
煙草を唇にぶら下がったまま「まさか?、・・・こんなことが本当に?」と呟いた。依子が走り去る背中に。
助手席のドアが開き、大きな体躯の若い男が出てきた。
「少佐」若い男は声をかけた。「局長から、”連絡を怠るな、どこにいるか報告せよ”との電話が」
クレメンズはその大男を下から睨みつけた。そして、「主役の女優が現れた、と伝えろ」と言った。
「は?」
「主役の女優が現れたと言ったんだ! ばかもの!」クレメンズが怒鳴った声を、若い男はその時初めて聞いた。
「・・・まさか。ゴーストですか?」
「いや」クレメンズはあきれたようなに苦い顔をして、煙草に火をつけた。
そして煙草を逆に咥えていたことに気づき、あわてて吐き出した。
「いや、あれがオリジナルだ。」