依子(1)-11
突進してきた男の体を避けるために、依子は半身をひねった。
緩慢な男の動作に対応するのはわけはなかった。
男の背後に体を入れ替える。
一瞬にして自分の前から消えてしまった依子の代わりに、男はまわりの空気を掴むようにかきむしるだけだった。
それと同時に依子の背後から、短い女の悲鳴が上がった。
依子が振り返ると案内係の女性が、スロープの上方でしゃがみこんで顔を覆っていた。
依子と、その女性の間に、大きな鼠がいた。
いやああ、お化け鼠いぃ、
叫ぶと、女性はスロープを這うように駆けあがって行った。
もっとも鼠の方も、そのあまりの反応に驚いたように凝固している。
その姿はどこかこっけいだ。
女性以上に、その悲鳴に、鼠のほうが驚いているのが依子にはわかった。
このアマ、と低く唸る男の声がして、依子が背後を振り返る。
興奮した白シャツの男が今度は両手を広げて、下から依子を囲むように迫ってきた。
反射的に、依子は銃を持った片手を上げた。
両手を添えて、じりじりと迫ってくる男の額に照準を合わせた。
今度は男が固まる番だった。
自分に何が向けられているか分ると、とたんに男の顔は真っ青になった。
やめろ。本物だぞ。
両手でグリップを強く握ると、オートマチック特有の安全装置が外れ、依子の手の中を跳ねた。
男は目の前に掲げられた依子のその動作の意味が分ったようだ。
あとは引き金を引くだけだ。
やめろ。本物だぞ。
男の声が震えながら繰り返す。
弾も、弾も、弾も、
と何度も口から泡を飛ばすように叫びながらも、もはや言葉にならず、脂汗が顔中にびっしりと浮き上がらせている。
依子は、そのまま、たった一歩、男に近づいた。
それで男は顔を覆いながら、その場にへたり込んでしまった。
その場に隠れる子供のように膝を抱いて小さくなる。
ひゃあああ。
空気が抜ける風船の音のような叫び声を漏らした。
「ビッ!ビッ!ビッ!」
依子の耳に、突然、不快なブザー音が響いた。
依子は思わず、片手を拳銃から離し、耳を押えた。
「停止せよ。これは警告である」
依子の前の男は、ぐにゃりと脱力したようにその場に倒れていた。嫌な匂いがしていた。男の股間からシミが広がって行く。男は失禁していた。
「その男は、明らかに民間人である」
”グレープシティ専用中継端局 衛星搭載型アナライザ”。
そう名乗った声のようだった。
避けたテントのメッシュの窓から、再び、強い夜風が依子を正面から吹き抜けた。
風が吹きつけるテントの裂け目の向こう側に、三角形に切り取られた星空が見えた。