依子(1)-10
依子の前方から、突然、若い女性の笑い声がスロープに響いた。
人気のない回廊に響くそのあけっぴろげな笑い声を聞くと、ふと依子は、従姉妹の幸恵の開放感を思い出した。
それが、一瞬、混乱した頭を少し現実の自分の居場所に引き戻してくれたようだった。
しかし笑い声は、従姉妹の幸恵のものではなかった。
それほど無邪気な響きではなく、どこか媚びたような色がある。声の大きさももどこかわざとらしい。心から笑ってるわけではないことが感じられる。
そんな笑い声の主は、意外にも先ほど出口に立って上映の案内を行っていた女性の案内人だった。
下りのスロープの途中には喫煙所がしつらえてあり、そこには広いスペースが確保されていた。通路を挟んで、中央側には、小さなベンチシートが2席並び、平坦で、広く区切られた空間があった。
その周りのテントの外壁側だけには、メッシュパネルの窓が開いており、外気が吹き抜けていた。
ベンチシートには、今、一人の若い男が座っており、笑い声を上げている案内の女性は、その男の前に座って、男の手元を覗き込んでいた。案内の女性は例の冒険者風ヘルメットを座椅子代わりに床に置き、その上に座り込んでいた。
依子には背を向けていた。
ホンモノなのお? それ?
ひとしきり笑い声を出し切ると、今度は、妙に甘えたような声で、目の前に座る若い男に訪ねている。
若い男は薄笑いを浮かべながら、目の前の女の反応を楽しんでいるかのようだ。襟の大きく開いた白いシャツを着ている。
その2人の脇の中央側の壁には、大きなドアがあった。洗面所だろうか。
そこで、女性が振り返った。背後の依子の気配を感じたらしい。
あ、お客様、とあわてて立ち上がり、どうかなさいましたか。
と、見事に一瞬にして、きびきびした業務用の声と笑顔に切り替えた。
若い男は手に持っていた、女性に見せびらかしていたものを、あわてて依子の視線から背中に隠した。
なんだか気分が悪くなって。と依子は言った。
その奥は、トイレですか?
いいえ。案内係は後ろのドアを振り返った。
ここは映写室なんですよ。一般のお客様は立ち入り禁止です。
その時だった。
上の上映会場のほうから、女性の悲鳴のような声が響いた。
ガタン、ガタンと大きな物が叩きつけられたような音が続いた。
案内の女性と依子は思わずスロープの上を見上げた。先ほどの上映室がその先にある。
なんだぁ? なにかあったか。
白シャツの男もベンチから立ちあがった。
上から響く悲鳴は一つでは収まらずに、今でははっきりと、女性の悲鳴と、大人の男性の怒号のようなものに変っていた。
パニックになったような女性の悲鳴の合間に「ネズミが」という言葉が聞き取れた。
ちょっと見てきな。
と若い男が、顎で女性を指示すると、案内の女性は頷き、ヘルメットを抱えてスロープを駆けあがって行った。
その上には、まだリュウちゃんがいる。このまま一人で出るわけにわいかない。
依子もその後を追おうとした時、ふいに背後から肩を掴まれた。
白いシャツの若い男の腕だった。
待ちなよ、お嬢さん、あんた。なんだか、妙だな。
依子は肩をすくめた。振り返ると、若い男の舐めまわすような視線が依子の全身を這いまわっていた。
気持ち悪い。
若い男が依子の瞳を覗き込んだ。
あぁ。ガイジンかぁ?。
粘りつくようなイントネーションの声で、男の息が依子の首のあたりにまとわりつく。若い男の目には好奇な光が宿っていた。
その時、先に駆けあがって行ったヘルメットの案内係の女性が、スロープの上から大きな声をかけた。
なんだか客席に大きな鼠が出たんだって。客が騒いでる。ちょっと来てよ。
ええ? ネズミだって?
男はあきれたような声とともに「チッ」と小さく舌打ちした。
依子を掴む男の手が緩んだ。
依子が引き離そうと身を捩ると、その拍子に男の背後の腰の辺りから黒い塊が床に落ち、ガチン、と金属音が床に響いた。
さきほど依子の視線から隠して、背中に押し込んでいた物だ。
黒い塊は、暗い床をスルスルと滑り、依子を通り越して、その背後に止まった。
自然に依子の目はその塊をとらえていた。
黒い鉄の塊だ。
鈍く光っている。
なに?
「Colt Government 1911A Model」。
つづけて、また、頭の中の声が答える。
「こると、がばめんと?」
依子はそれが何を意味するのかよくわからないまま、ついそのまま声に出してしまった。
なにもんだ、あんた。
声に顔を上げると、今度は、若い男が、先ほどとは変わって、血相を変えて依子の顔を凝視していた。
今は男の目はギラギラと強く光っていた。同時に、若い男の腕が依子に再び伸びた。
嫌ッ。
依子はその腕を、出来る限りの力で跳ねのけた。
そのまま体を抱え込むようにしゃがみこむと、両目は閉じてしまった。
傾いたスープの床と、意外な依子の反応に、男は体のバランスを大きく崩した。
依子に腕を伸ばそうと、前のめりになった姿勢のままバランスを崩し、小さく蹲った依子の体に躓くと、テントの壁側の窓にそのまま上半身をつっ込んでいった。バリバリと音を立てて、壁側のメッシュパネルの窓が周辺のビニールともに大きく裂けた。
もう少しで、そのまま男の体はテントの外に放り出されるところだった。男はスロープの外周側の手摺にしがみつき、なんとか体を止めていた。
蹲った依子が目を開けると、目の前の床に、黒く光るその銃身が見えた。
先ほど男が落とした銃だ。
男はバランスを回復すると、
このやろう、
と低く獣のように唸り、依子を振り返った。
男の背後で、裂けた壁から夜の空気が吹き込んできた。その冷たい風が、男を通り越して、蹲った姿勢の依子をさらうように強く吹き付けた。
強い夜風にあおられたテント外壁のビニールの切れ端が、バリバリと大きな音をたてた。
なにやってるのよ!
騒ぎが大きくなる前になんとかしないと!
上のスロープの影から、案内係の女性の声が響いた。
再び立ちあがった男が、背後から、蹲った依子の背中に手をかけた。
驚いた依り子の手が、反射的に、前に伸びた。
拳銃を拾う。
コルト・ガバメント、1911年モデル。
拳銃のグリップの感触が依子の手に伝わった。
なにしやがる、返せ、と男の声が驚いたように背後で響いた。
まさか依子が銃を手に取るとは思っていなかったのだ。
依子には、その声は、今度は、すっと遠くから聞こえたような気がした。
男の手を、再び払いのけると、依子は立ち上がった。
拳銃は驚くほど、依子の手になじんだ。
まるで重さを感じなかった。
「ずいぶん旧式な」と依子は自分が呟く声を他人のように聞いた。
「ずいぶん旧式な拳銃だ」
振り返ると、さきほどの男が、目と口を大きく開いた男が、依子の手の拳銃と、依子の顔を交互に眺めていた。男は、我に返ると、依子の手の拳銃に視線を釘づけにしながら、ひゃあ!、と妙な奇声を上げて、
返せ!と再び叫び、依子の手にしがみついてきた。
依子の目には、その動きはひどく緩慢に見えた。
まるで、スローモーションのようだ。