依子(1)-9

下りのスロープはまるで地下迷宮への通路のように思えた。

ひどくめまいがした。

鏡に映った自分の姿に、依子は驚いていた。

それが自分であるとは思えなかったからだ。

しかし、では、自分はどういう顔をして、どういう姿だったのか?

それも、今ではなんだかはっきりイメージできないのだった。

自分がまるで別人になってしまって、自分に戻る通路が見つからないかのようだ。

あの緑色の瞳は、わたしの瞳 なのか。

いくらなんでも自分の瞳の色が緑色であったはずがなかった。

瞳の色が変わることなんてことがあるの?

「初期開発段階の、共感覚受容体の長期投与による症例・・・」

「瞳の色を決定する虹彩ストロマに付着するメラニン色素が細かく分裂することにより、短波長の光を多く反射し、多くの場合、ブルー、または、グリーンに変化する副作用が記録」

依子の頭の中の「声」が答えた。

依子は足を止めた。思わすスロープを振り返ってしまう。

なだらかなスロープには隠れるスペースもなく、もちろんどこにも人影は見えなかった。

この「声」はやはり頭の中に直接聞こえているのだ。


"きょうかんかくじゅようたい"ってなに?


「ブレインストームでの通話時に、端末側脳デバイスの受信機能として作用する薬物。またはその作用を示す。内耳にかかる可聴周波数外の超音波に作用し、その信号を、言語化、視覚化するため開発された薬剤」

足もとがふらついた。

わからない。


では、「きょうかんかく」というのはなんなの?

「一つの知覚の刺激によって別の知覚が無意識に引き起こされる感覚」



では、"ぶれいんすとーむ"ってなんなの?

「脳対話装置。brain streaming communication Equipmentの通称」



どうやって・・・脳で対話するの?

「脳デバイスからは、超伝導量子干渉素子により、脳から発生する磁界を検出解析し、脳デバイスへは、頭部ハードウエアからの微細な刺激を、共感覚受容体により 言語化・視覚化することで言語・画像の双方向情報通信が可能」


今の対話が、脳内対話なの?

「その通りです」


私は、だれ?

「アクセスが許可されていません」


なんですって?

「・・・・・」


私は、だれなの?


「その質問に対して、あなたのアクセスは許可されておりません」


あなたは、だれなの?

「グレープシティ専用中継端局 衛星搭載型アナライザ 型名TE400B」


では、さっきの「しゃべる鼠」は?


依子は、先ほどの館内の席の下でうずくまっていた大きな鼠の姿を思い描いた。

鼠の黒い塊の目が2つ光っていた。依子を見ていた。

「依子、僕が分かるか?」

鼠はそう聞いた。「高間くん」と、私は鼠をそう呼んだ気がする。


「アクセスが許可されていません」

と頭の中の「声」が答えた。