依子(1)−2

若先生、妙だったね。笑わないで。幸恵は、なんだか不満そうに口を尖らせていた。
丘の上の病院の若先生は、依子の傷口を見て、からかわれたと思ったのかもしれない。
幸恵ちゃん、ごめんね。と言うと、なんでえ?と幸恵はことさらに大きな声で笑った。

丘の上の病院では、診察が済み、手の怪我も大丈夫かと思うと、さっさと車で叔父を先に帰らせて、幸恵と依子は二人で並んで坂を下っていた。
まだ5月だったが初夏のようば日差しが坂に降りそそいでいた。
葡萄畑の周りに作られた水路を流れる水の音が、自然と二人の靴音とリズムをきざむ。
どこからか笛と太鼓の音がしていた。
ああ、今日は武田神社の神輿祭りだったんだ。
ねえ、ヨリちゃん、ちょっと寄ってこう。

葡萄の季節にはまだ早かったが、この時期には桃の花がピンク色の雲のように神社を囲んでいた。
坂道から脇に入った神社への道には、今夜のための出店の準備で、リアカーや軽自自動車が行きかい,けっこうな人だかりができていた。
通りに面した家の軒下では、法被をはおった男たちが「祭」の文字の入った提灯をつり下げる作業をしている。
大きな農家の門には、縁台が設けられ、その上に旅芸人の支度をしたチンドン屋が休んで煙草を吸ってた。
長い石段を上った先の境内では、山車の中で子供たちが太鼓の稽古をしていた。
幸恵と依子は足を止めることもなく、それらを眺めながら境内を一周していたが、やがて幸恵がひよこ売りの店の前で足をとめた。
店はまだ準備の最中だったが、段ボール箱で作られた巣箱は開かれ、黄色や青い色に塗られたひよこたちがピヨピヨとさざめきながら体を寄せ合っていた。
ふーん、と頬笑みながら幸恵が覗きこむ。
つられて依子もその後ろから幸恵の肩越しに覗きこむと、一斉にひよこたちがこちらを向いた。
何十匹のひよこが上を向いて、興奮したように口を開ける姿は壮観だった。
幸恵がそのひよこたちの視線の先をたどって振り返ると、依子の笑顔があった。
ヨリちゃんて、凄い。
と思わず幸恵が言葉を漏らした。
まるで親鳥だね。
依子はひよこたちの前に幸恵と並んで座った。
そうすると今度はひよこたちの視線が一斉に依子を追いかけた。
そういえば、昔買った亀どうなったの?
こんなに大きくなったでしょ?
と、幸恵が大げさに手を広げた。
大きくなりすぎて、近所の池に放しちゃった。と依子は言った。

へえ。金魚も凄かったもんねえ。まるで鯛みたいになってたもんねえ。そうかそうか。

二人が坂に戻ると、坂の中腹にある原っぱに、大きなテントが張られる準備がされていた。

あれ、なにかしらね。と依子が指差した。お祭りでサーカスかしらね。
ああ、あれ、ね。
と幸恵は以外にそっけなかった。
栗本の出し物だよ。
テントの前には、確かに「栗本興業」という看板が見えた。

大きな丸いドーム型に広がったテントの上には、今、大きな目玉のような看板が釣り上げられていた。
なにあれ。気持ち悪い。不気味。と幸恵がつぶやいた。
栗本のやることはすかん。
幸恵はすたすたと先を急いだ。
依子はその剣幕にわけもきけず、あわててあとを追った。

ふと振り返ると、テントの頂上が開き、一人の男の影が立ち上がったかのように見えた。
あんな上に人がいる。
逆光で影しか見えなかった。
その影は丘の下に広がる街を見下ろしているように見えた。
そして、ふと依子のほうを見たような気がした。

「グレープシティへようこそ」と依子の頭の中で声がした。