キャスティング(4)

「映画の制作から最も縁遠いものが学校行事を仕切る生徒会だ。」と僕は英樹に小声で告げた。

「それと鯉のぼりの洗濯も、だ。」

いずれ奴らにかかれば全てが予定調和的に進行していき、ほとんどコントロールが出来ないまま僕らの映画はただの学内イベントの具と化すに違いない。

「ま、しかし、いずれにしても
、2人きりであの映画を作るわけにもいかない。」意外なことに英樹は諭すようにそう言った。

「それに、本気で子供を使いたいのなら、どこかで親達に交渉しないといけなくなる。あれはそれほど悪い案じゃないと思う。」

だが、その証拠にさっそくこのていたらくだ。

僕は大きなタライの前で「鯉のぼりの洗濯」の練習開始という訳だ。これが我が生徒副会長殿の思し召しだった。

「正式通知は連休明けです。さっそく鯉の洗濯の予行練習をしてみなければ」。そう言うが早いか、僕が案内された場所は矢島家の裏庭、そこを囲むように登る公道の坂道沿いに、段々に埋められた石垣に囲まれた小さな池のほとりだった。

そこには人が乗って漕げるような巨大なタライと、そこまで水を引くための長いホースが待っていた。ホースの先は矢島家の裏庭にある水道につながれていた。

とりあえず僕の書き上げたスクリプトに目を通すために英樹は機織工場へ残すことにしたため、結局僕一人が、そんなふうに用意されたタライの前に引きづりだされたのだった。

鯉のぼりに洗濯が必要なことなど、それまで僕は知らなかった。

我が家には3人も男兄弟がいたが鯉のぼりで祝うような習慣は一番上の兄の代からあっさり無視されていた。

水をタライに満たして中性洗剤を薄く溶かし、その中へ鯉一匹を放つ。それから後は単純でそれなりになかなか過酷な手洗い作業に移らなければならない。

と、矢島幸恵は手短に僕に作業内容を伝えると、水道をあけるために家へ戻っていった。

やがてホースからタライに満たされていく水を眺めているうちに酷い睡魔が襲ってきた。

そういえば、昨晩は一睡もしていない上に、慣れない原稿書きでクタクタだったのだ。

おまけに自分の体から、ものすごい悪臭が放たれていることも分かったいた。タライの前にかがんでいると、自分の下半身のあたり周辺から湧きあがってくる匂いが直に鼻孔を刺激し続けていた。

それで我ながら頭がガンガンした。

水に溶けた中性洗剤のわずかな泡が庭の陽射しを反射して七色の虹を水面に作っていた。

僕はさっさとタライの池に極彩色の鯉を放った。

二重丸で描かれた鯉の大きな目玉がへなへなとタライの底に沈んでいく・・・。

なんだか気持よさそうだ。

それで、背後からタッ・タッ・タッと走り寄ってくる足音が聞こえたとしても、まるで空耳のように感じていた。そうではなかった。

振り返ると、こちらに走り寄ってくるのは目白依子だった。

例のマスクで顔半分を覆ったまま、まるで走り高跳びの選手のように、髪をなびかせてこちらに走り寄ってくる。

僕はぼんやりとした頭でこちらに走ってくる目白依子を眺めながら立ちあがった。

なにをそんなに急いでいるのだろう?

彼女の片手には銀色の大きなバケツが吊るされていた。

そのバケツの中の水が彼女の歩調に合わせて激しく跳ねていることまで僕には良く見えた。

彼女は僕のわずか2mほど手前でピタリと止まった。

凄い運動神経じゃないか。

ほとんど思考停止状態の頭のまま、僕はそんなふうに、彼女の機敏な動作に妙に感心していた。

しかし彼女の片手に吊られたバケツの水はそのまま僕の方向へ吸い寄せられてきた。

当然だ。

それは慣性の法則とかいうやつだ。

あとは彼女が浮いたバケツの取っ手を片手でわずかにひねるだけで、バケツの水は独楽のような綺麗な飛翔帯になって僕の顔の正面から襲いかかってくるだろう。

その場面は、まるでスローモーションの映像のようにきらきらと輝いて見えた。

キャスティング(3)

矢島幸恵は深緑色のロングスカートのポケットから一枚の紙を取り出した。

それは4つに折られた原稿用紙で、彼女は丁寧にそれを広げた。そして声を出して読み上げた。

1.県立甲府南高校は今年4月で創立100周年を迎えた。

2.ついては今年度の文化祭(11月実施)では、いろいろな100周年記念イベントが予定されている。

3.有志達による「8ミリ映画製作」もその1つである。

4.映画の内容は「楽しいミュージカルファンタジー(コメディ)」です。

4.映画には子供たちが大勢で「かわいい子鼠ダンス」を踊るシーンがある。

5.撮影場所は勝沼町近郊を予定。撮影期間は子供たちの夏休みに行いたいと考えている。

6.ついては出演者たる子供達を随時募集中。

  連絡先は甲府南高校生徒会副会長:矢島幸恵宅まで。

7.ご協力いただく方々に「使用済、鯉のぼりの洗濯」を無償で行います。

  これは、お子様が出演されるかどうかにかかわらず、希望される方々には出来る限り行います。

  これは、県立甲府南高校生徒会主催のボランティアです。

8.映画はまだ企画段階のものです。場合によっては中止となる可能性もあります。

読み上げた後に、その原稿用紙は、矢島幸恵から僕へ、僕から英樹へ、そして英樹から目白依子へと静かにリレーされた。

原稿用紙の左上の隅には、目白依子の母親の出版社の社名が印刷されていた。

そうしてその原稿はおそらく作者の元に戻っていったわけだ。

目白依子は無言でそれを受け取った。

「大まかには、その線で。連休明けから宜しくお願いします。」

そう告げたのは、矢島幸恵の大きく張った声だった。

「正式通知は連休明けに、生徒会から勝沼町役場に正式配布の予定。」

キャスティング(2)

矢島幸恵は機織工場の前で待っていた。

目白依子と並んで立っていた。

目白依子は、大きなマスクをしていた。

僕たち2人が少し足を早めて近寄ると、矢島幸恵は僕たちに向かって一つうなづくと、「ちょっと、困ったことになった。」と言った。

背中を向けて機織工場の入り口のドアを開いた。

まず、大きなマスクをした目白依子がその中へ入っていった。

何か不審な動きだった。

「今朝からウチに何件か電話があった。昨日のお祭りに遊びに来ていた子供たちの母親からの電話よ。」

矢島幸恵は、その鋭い視線で、工場入口へ僕らを追い立てるように一瞥した後で、そう説明を始めた。

僕と秀樹は、とにかく彼女が示した通りに、彼女の脇を通り、目白依子に続いて工場入口へと急いだ。工場の廊下は、薄暗い中に午前の陽光の光の筋が幾本も降りそそいで、その中を舞う埃が虹色に輝いたトンネルを作っていた。

目白依子がその奥に立っていた。

「まあ大筋は昨日のお祭りで、家に呼んで遊んでくれたお礼のようなものだった。でも妙な話を子供たちから聞いた、と母親達が言ってたらしい。」

背後から矢島幸恵の説明が続いていた。

「その電話には母が出たので要領は得ないけど、どうやら子供たちが、今度の夏休みに僕たちは映画に出る、と言っているらしいの。

矢島のお姉ちゃんが作る映画に僕達も出るんだ、と。」

長い溜息のような間が取られた。

「いったい、誰がそんな話を子供たちにしたのかしら?」

そう言う彼女の言葉は、僕の背中を正確に捉えていた。

「電話の母親達は笑い話のように軽い調子でそんな話を私の母にしたらしい。」

「もちろん、その裏には、何か得体のしれない者への注意と用心深さがある。判るでしょう?。」

「要するに、さっそく何が起きているのか、探りを入れてきた、と言う訳よ」

工場の廊下には、大きくて長い着物のような布が敷かれていた。

廊下に沿って広げられた長い布を良く見ると「鱗」のような模様で覆われている。いや、それは「鱗」そのものの絵だった。

マスクをした目白依子がその布を、奥からピンと引くと大きな目玉が現れた。

「鯉のぼり」だった。

廊下の床に這うように広げられたそれは、妙に頼り気がなさそうに板の間から片目で僕くたちを見上げていた。

「これは、ウチのだけど、漸く今朝になって役目を終えた。」と矢島幸恵はしゃがんでマスクをつけた。

確かに週末に入る前は端午の節句だった。その年の5月は5日以降に土日が続く超大型連休だったわけだ。

「兄貴の代から空を泳いできて、御覧の通り、もうボロボロ。おまけに、」

矢島幸恵は僕の背後から、背中越しにその鯉のぼりを眺めながら、ふいに説明を止めた。

「・・・あら、なんか臭うわね。」

目白依子がマスクを差し出した。それは、英樹から、僕、僕から矢島幸恵へと静かにリレーされた。

矢島幸恵は、短く、「サンキュ。」と言いながらマスクをつけた。

キャスティング(1)

窓から差し込む朝日が顔を照り付けて目が覚めた。

いつの間にか眠ってしまったようだ。

机の上は散乱したノートやレポート用紙の切れ端で埋まっていた。

自分の頭が載っていたと思しき部分がくしゃくしゃになっていた。

妙な夢を見ていた。

時計を見ると、もう9時を過ぎており、あわてて起き上がった瞬間に夢のことは忘れてしまった。

とにかくノートをかき集め、鞄に詰め込み、部屋を出た。

5月連休の最終日はよく晴れて、空は真っ青で、まるでジョンフォードの西部劇の空のようだった。

トタン屋根の古い自動車修理工場の2階が僕の部屋だった。

父と2人でそこに住み込んでいた。

父は1階の事務所で寝泊まりしていたが、愛用のジープが帰ってきていないところを見るとま何処かにしけこんで一夜を明かしたのだろう。

僕には優秀な兄と、凶暴な兄が1人づつ居た。

優秀な方は、東京でサラリーマンになり母と暮らしていた。

凶暴な方は、地元の甲府市内の飲食店を転々として、バーテンのような仕事をしているらしかった。

どちらもめったに家には帰らなかった。

最もここが家という認識さえなかったかもしれない。

修理工場の2階から外階段を駆け下りると、体が悲鳴を上げて背中から足の裏まで痺れるような感覚が這い上がってきた。

だが、そんなことはどうでもよかった。

船は帆をはり風上に向かっている。いよいよ僕は映画を作るのだ。

そう思うと駅へ向かう足が自然に早足になった。

体の痛みはいつの間にか消えた。


甲府南口、丸の内のアーケード街に「甲陽書店」はあった。

ガラスのドアを開けるとチリンチリンと鈴が鳴り、奥のレジに座っていた川本紀子が「いらっしゃいませ」と言いながら顔を上げた。

「あれ、高間くん」とのんびりした声で言った。

「今日は非番じゃないの?」

コピー機、借ります。」

僕はとにかく店の奥の事務所に直行した。

「無視かよ。てめえ。上等だな。」

川本紀子が通り過ぎた僕の背中にそう言うのが聞こえた。


僕は順番に並べて整理した紙切れを端からコピーした。

作業を終えると、鞄に詰め込み、その中の一部を取り出して川本紀子の前へ戻った。


川本紀子はレジの中で本を読んでいた。

片手で長い髪をくるくると回していた。彼女が夢中になっているときの癖だった。

本には「スタニスラフスキー・システム・メソッド演技」と書いてある。

僕は紙の束を彼女の前に差し出した。「これ、読んで。」

彼女は顔を上げずに、「うん。」とか「ふう。」とか言いながら、レジの机の上を指差した。

「映画のスクリプトだから。」

それで漸く顔を上げた。

「書けたの!?」と言った。

立ち上がり、紙の束を覗き込んだ。

「読んでおいて。感想を聞きたいから。」

紙の束を受け取ると、じっと僕の顔を見た。

「凄いじゃない。」そう言って、笑って、しかし直ぐに顔をしかめた。

「高間君、あなた、なんか、臭い。」

それから、突然手を伸ばして僕の頭を触った。

僕はどきりとした。

僕の頭から戻った彼女の手には、大きなリンドウの葉のようなものがつままれていた。

「ジャングルで書いたの?」

眉を寄せて、その葉をじっと眺めた。

僕も思わず一緒になって眺めてしまった。

それで、漸く気づいて、自分の姿を見返すと、なんとも酷い有様だった。

靴は泥だらけで地の色は見えなかった。ジーンズの腰の辺りまで、その泥がべっとりとこびりついていた。

シャツはよれよれで青い植物のシミのようなもので覆われていた。

彼女は眉を寄せたまま、つまんだ葉を僕の目の前でひらひらさせて、♪ワーオ ワーオ ワオー と拍子を取って歌った。

"狼少年ケン”という古いアニメの曲だった。


上り電車に飛び乗ると、自分の匂いをかぐために僕は体をひねって試してみた。英樹はともかく、矢島幸恵と目白依子にこれから会うことになっていたからだ。

そうしてくるくる回っていると、座席に座っている女の子がじっと僕を不思議そうに眺めていた。隣の母親があわてて少女の両目を押さえ、見ちゃだめ、と言うのが聞こえた。

勝沼駅で降りると、英樹は駅前広場で待っていた。

やはり鞄を抱えていた。彼が書いたスクリプトが入っているはずだった。

「遅い。時間無いぞ」

英樹は怒ったように言うと、さっさと先に歩き出した。彼も気分が高揚しているのが判った。

矢島幸恵の機織工場の前に着くと、「なんか匂わないか?」と言いながら僕を振り返った。

「さあ?、行こう」僕は先を促した。

矢島幸恵は機織工場の前で待っていた。

目白依子と並んで立っていた。

目白依子は、大きなマスクをしていた。

シナリオ作成(17)

僕は丘の頂のなだらかな平野を、崩壊した建物跡を横目に、さらにその奥へと進んだ。

丘の裏側は、甲府市街に背を向けて、深い森へ、上日川峠へ向いている。

その彼方には大菩薩峠があり、それからさらに先は奥秩父へと続く森林地帯だ。

「葡萄畑」があるとしたら丘の頂から見下ろせる程度の位置にあるはずだった。

そう考えながら、丘の頂きからなだらかに下りかかった時だった。

突然、ゴゴゴ・・・

と、たくさんの獣が一斉に唸るような音が、丘の向こう側から響いてきた。

地鳴りのようだった。

それは僕の身体に痺れるように伝わってきた。

なんだろう?

僕は、足を止めた。

何かやって来る。

いきなり風の塊のようなものが僕の体全体に襲いかかってきた。

凄い風だ。

旋毛風が丘の向こう側から、駆け上がって来たのだ。

僕はあわてて両目をつぶりその場にしゃがみ込んだ。

膝を抱えて身体を丸めた。

旋毛風はあっという間に通り過ぎて行った。

ゴゥゴゥゴゥ・・・

と残響を残して。

いつか地鳴りもおさまっていった。僕は両目をこすりながら漸く身体を起こした。

そして旋毛風が駆け上ってきた、闇の先にあるはずの下り坂へ目を凝らした。

そこには、何もなかった。

「無」だ。

僕は自分の感覚がおかしくなったのかと混乱した。

眼前の虚空の中に目を凝らすうちに、徐々にどういうことなのか分かってきた。

丘の裏側は、まるで巨大なナイフで削り取ったような急斜面になっていたのだ。

その斜面には、道もなければ、木も、岩も、草さえも、生えていないように思えた。

その様子から僕がまっさきに連想したのは富士下山道の大砂走りの光景だった。さもなければ砂漠の砂丘だ。

急斜面の遥か下にはどうやら道があるようだった。そこには仄かな街灯の明かりが見えた。

そこまで行くには、目の前の、その巨人の滑り台のような斜面を下るしかなかった。

引き返したほうがいいのかもしれなかった。僕は丘の頂を振り返った。

そこには日川診療所の廃墟が星空を背景に立っている。何故か僕が戻るのを待っているかのように見えた。

僕はそのまま行くことに決めた。

そして一歩足を踏み出すと、もう止まることが出来なかった。

僕は夢中になって足を運んだ。

タイミングが狂ったら、漆黒の闇の斜面を、底までころげ落ちるしかない。

砂利が足元ではねて、その下の柔らかい粘土質の土が僕の靴の裏を掴むようにからみついてきた。

僕は尚も斜面を駆け降りた。

"天上には銀色の影をした結び目が保管されていて・・・"

唐突に、"ねじ巻き人形"の、あの奇妙な冒頭の一節が蘇ってきていた。

夢中で足を繰り出す僕の頭に。

"天上には銀色の影をした結び目が保管されていてそれが解かれると天界が回転を始めた。" 

"次に鼠たちが騒ぎはじめた。"

”水晶の塔に黄泉の影があらわれた。

"ねじ巻人形を連れてこい。"

"ねじ巻人形を連れてこい。"

”ネジ巻キ ニンギョウ ヲ ツレテコイ”

そうして、一気に斜面を下りきると道路面の跡に到達した。

やがて息を整えると、そこから僕はその斜面をあらためて見上げた。

斜面の上には、廃墟の影があり、その背景には星空が見えた。

天上から大きなナイフが差しこまれ、この丘の裏側半分を、ごっそりと削り取っていったのだ。

そうして持ち去ったのだ。

なにもかも。

丘の頂上の診療所は、そのナイフの刃元に押し潰されて、粉々に砕け散ったのに違いない。

僕にはそんな風にしか思えなかった。

シナリオ作成(16)

建物の門前をライターの明りで照らしてみると「日川診療所」という看板が掛っていた。その周りも黒く焦げて文字を判読するのもやっとだった。

「ヒカワ診療所、ヒカワ・・・」

ライターで照らされた文字を、そう言葉にして呟いてみると、ふと何か記憶の底から蘇ってくるのもがあった。

この病院の名前は僕も聞いたことがある。

そうだ。

確か戦争中には、戦地で傷を負った兵士達を治療する軍専用の病院だった所だ。

研究施設も兼ねている所だったはずだ。


僕の脳裏には、若い兵士が、坊主頭に包帯を巻き、その片目は眼帯に覆われ、病院のベットで治療を受けている姿を写したモノクロの写真が蘇っていた。

その兵士の包帯で覆われた頭から顎にかけて、なんと槍のような長い鉄芯が貫いているのだった。片目の兵士は、その槍で頭の中心を貫かれたまま、諦めたような、奇妙なほど穏やかな視線をこちらに投げていた。

「戦場で傷を負った兵士を治療する様子。戦時中の日川診療所にて」。

それは僕が子供の頃、大怪我をして担ぎ込まれた甲府市内の病院で見た壁新聞の記事のようなものだった。これには子供心にもショックを受けたものだ。

なぜ、真っ先に兵士の頭から槍を抜いてあげないのだろう? 

僕は不思議でならなかった。


病院の名前が「ヒカワ」と呼ぶくらいだから、僕はてっきりそれは町の南を流れる「日川」沿いにある病院だろうと思っていた。

こんな丘の上に建っていたとは知らなかった。

戦火を奇跡的に潜り抜けてきた建物だった。どうりで歴史を感じさせる門構えのはずだ。

最近になって火事でも起こしてしまったのだろう。闇夜の中でさえその建物の荒廃ぶりは分かった。

門から覗いて目を凝らすと、まるで「雨月物語」の幽霊屋敷の跡のようだ。

爛れた壁と柱だけが焼け野原に虚ろに立っている。

そう言えば、この病院とセットになって流布されている奇妙な噂話があった。

それは「甲府戦争」と並んで栗本興業の伝記の一部でもあった。でもニュアンスからすると田舎町にありがちな「地元の怪談話」に近かった。

戦争が終わった直後、この施設から軍事用に開発された毒ガスが漏れた事故が起きた、というような話だ。

それで付近一帯の田畑が全滅してしまった。

けれどその田畑を安く買い込んで、さらに品種改良された葡萄を仕込み爆発的な戦後のワイン需要に結びつけたのが栗本興業だったという。

もっとも「品種改良された葡萄」というのは、まったくのカモフラージュで、実はより強力な毒ガスの施設を米軍と共同で建設研究していのだ、とか、戦後に巷に溢れる帰還兵士達のための麻薬の生産拠点だった、とか・・・その先のアレンジには数種類あった。

挙句は、その毒を撒いた張本人こそ栗本興業で、その特別な土地を手に入れるための工作だったのだ、という話にまで広がっていた。

それで、僕はその廃墟に沿って丘の裏側へと回ってみることにした。

噂話が本当ならこの廃墟の裏側に、その「謎の葡萄畑」が存在しているはずだ。それに、そちら側へ降りれば、元来た坂道引き返し駅へ登る道を行くよりも直接駅へ下る近道になるはずだった。

僕は丘の頂のなだらかな平野を、崩壊した建物跡を横目に、その奥へと進んだ。

シナリオ作成(15)

変な女。

一言でいえば、それが目白依子に対する僕の印象だった。

僕はやがてお祭りの賑わいから離れて、人気の途絶えた街灯もない田舎の夜道を、駅へと戻りながら目白依子との会話を頭の中で反芻していた。


結局「作家」と言うのは「あんなふう」なものなのだろう。

時に怒っているような、そうかと思うと子供のようにはしゃいだような。

あの妙なムラがある態度はひょっとしたら彼女の言う神経症の後遺症なのかもしれなかったが。


けれど収穫もあった。

フェリーニの映画みたい」か。

やはり僕が睨んだ通りだった。彼女はかなり映画に詳しい。

もっとも母親が雑誌の編集者だと言うのだから、彼女が物語を書いたり映画に詳しいのは自然な成り行きなのかもしれない。


僕は彼女の住む「立川」の映画館にも行ったことがあった。

僕が高校生だった当時、立川米軍基地はとっくに返還されていて再開発の真っ最中だったがそれでもまだ「基地の町」の面影を残していた。

アメリカ映画を上映してると半分の観客は外国人だった。大きな声で笑ったり拍手をして彼等は映画を楽しんでいた。

目白依子が映画が好きなのであれば(それはまず間違いない。映画に興味のない人間がフェリーニを見たりはしない)、

ひょっとしたら僕達の映画製作自体にもいろいろ協力してくれるかもしれない。

何しろ自分の原作が映画になるのだ。

いや、何よりも女性であることは貴重な存在だった。

ちょっとした役で映画に出て貰うことも出来るかもしれない。

けれど目白依子が通う「立川高校」ば都内でも有名な進学校だと英樹は言っていた。

そうなると高校3年生の夏休みにそんなことをする暇は無いもんだろうか?

紀子の演劇仲間もいたが、それでも彼女たち−女子大生たちが、高校生の作る「8ミリ映画」にどこまで本気になってくれるだろう?

川本紀子本人は大丈夫だろう。

でも、紀子はこの物語をどう思うだろう?

僕の頭の中はそんな考え事で一杯だった。


そのせいで、いくら坂道を上っていてもなかなか目的の駅に着かないことに気付いたのは、やけに甲府盆地の夜景全体が見渡せる広い丘の上に着いた時だった。

一体、ここはどこだ? 

僕はその丘の上で足を止めた。

なんてこった。

どうやら道を間違えたらしい。

てっきり駅へ向かう坂道を登っているものかと思ったが、どうやら街灯もない田舎の夜道で登り口を間違えたに違いない。

なんとまあ、歩きなれない町とは言え、地元の町で道に迷うとは。

大きな溜息を一つ吐くと、僕はどっと疲れがおそってきた背中を伸ばした。


あらためて見渡すとその丘の上から見渡す甲府盆地の夜景はなかなかの見ものだった。
星屑を集めた池を空の上から眺めているようだ。

そして僕の立っている丘の背後には、大きな建物の影が蹲っていた。

しかし妙にバランスが崩れた学校のような形をしている。おまけにその大きな建物の窓には灯りというものが、一切、灯っていなかった。


来た道を戻るべきか、それとも駅へと下る近道でもないものか、
とりあえず自分の位置を確認しようと、僕はその大きな建物の門へと近ずいた。

その時だった。

妙な匂いが鼻をついた。

何かが焼け焦げたような匂いだった。

それは僕の前に蹲る建物全体が放った異臭だった。


その建物は焼け爛れて、放棄された残骸だったのだ。
その門はまるで「羅生門」を痩せて細くしたような木造の門だった。

建物の門前をライターの明りで照らしてみると「日川診療所」という看板が掛っていた。

まるで「赤ひげ」に出てくる「小石川診療所」の看板のように立派な一枚板に毛筆書きの文字がデザインされた大きな板の看板だったが、その周りも黒く焦げて文字を判読するのもやっとだった。