依子(1)−15

まるで梯子のような急な階段にしがみつきながら下りきると、
ようやく足の先が、でこぼこしたむき出しの地面についた。
電球の橙色の明かりがつき、依子の影をくっきりと描き出した。

その空間は、依子に体育館の舞台袖の物置を思わせた。あるいは舞台下の奈落を。

周囲にはガタガタと板張りのスロープを下る客たちの足音が充満していた。
足音がぐるぐると依子を取り囲んでいるように響いていた。

皆、依子を取り囲むようにしてスロープを降りているのだ。

話し声も聞こえた。

でかい鼠だったなあ いやよくは見えなかったがあの大きさは狸かハクビシンあたりにに違いない。

依子の脇を、どこからか夜の風が吹き抜け、電球が揺れた。そうするとテントの壁に映った依子の影も大きく歪んだ。

依子は顔を上げた。

そこには階段の降り口からこちらを覗き込んでいる例の男の顔が見えた。

依子を見下ろすその視線は、まるで実験動物を檻の外から観察しているようだ、と依子は感じた。

依子はじりじりと男の視線から後ずさりながら、夜風が吹く込んでくる出口へ向かった。

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そうして依子が出た場所は、ちょうどスロープ入口の脇の裏側だった。あの男を初めて見た場所だ。

スロープの上からはヘルメットをかぶった案内係に従って、
まるで避難訓練かなにかのように誘導された観客たちがぞろぞろと降りてきていた。

何事もなかったかのうな顔をとっさに繕って、依子がその列にまぎれると、
ほとんど同時に「ヨリちゃん!」と大きな声が背後からした。

振り返ると、バタバタとこちらに駆け寄ってきたのが隆三だった。

その笑顔を見ると、思わず依子も駆け寄って思い切り抱きしめたい衝動にかられたが、
疲れ切ったような、別の子供連れの客たちの顔が目に入ると、冷静さを必死で保った。

せっかく脱出したこの場所で、周囲に目立つような真似をしたくなかった。

さきほどの出口側スロープで、依子と逢った案内係の女性も、この列を誘導するためにどこかに居るに違いない。

ああ、よかった、迷子になったのかと心配したんだよ。

駆け寄ってきた隆三が息を弾ませながらそう言った。 まったく、さっさと逃げちゃうんだもの!

隆三のその言葉に周囲の子連れの客たちが失笑しているのを感じた。

しかしそんなことはお構いなしに依子は顔を俯いたまま急ぎ足で隆三の手を引いて塔の外に出た。

今は、少しでもこの場所から離れたかった。

その時、「ドドーン!」と地を揺するような低音が響き、空が一瞬にして光に満ち溢れた。

その場にいた者たちが一斉に空を見上げた。

青い大きな光の花が空一面を覆っていた。

花火だあ、 と隆三が大きな声を上げてはねた。

花火の光が周囲を照らし出すと、「水晶の塔」の前面屋根に飾りつけられた大きな目玉の模型が依子を見下ろしていた。

そして、その少し上に位置するテントの一角に、表面のビニールが三角形に破れて、その切れ端が、ただれた皮膚のように垂れ下がっている場所が見えた。

あれは下りスロープの、映写室前の踊り場にあったメッシュ窓の部分に違いない。
あの白いシャツの若い男が破いた部分に違いない。

依子はからからに喉が渇いているのを感じて、ごくりと唾を飲み込んだ。

私は帰って来たんだ。
あの奇妙な出来事から。
あの場所から。
こうして無事に。

そして一刻も早くここから立ち去りたかった。

依子は再び顔を俯いて隆三の手を引いた。

突然、ヨリちゃん! リュウちゃん!、と、

その前方から声がして、顔を上げると、そこには浴衣姿の幸恵が立っていた。

幸恵は両手で大きな箱を抱えていた。

・・・ああ!、ユキちゃん!

それで依子も、今度こそ我慢できすに駆けだして、そのまま幸恵に抱きついてしまった。

・・・ああ!、ユキちゃん!

声にならないような嗚咽が喉からあふれた。幸恵の浴衣の上から力任せにしがみついてしまった。

幸恵は、あわてて、そんな依子を受け止めたために、かわりに両腕で抱えていた荷物を地面に落してしまった。

・・・・どうしたのさ。そんなに怖かったの?

背後に居た里美が驚いて幸恵の荷物を拾い、依子の顔を心配そうに覗きこんだ。

違うんだよ、お化け鼠が出てさ。大騒ぎさ。後ろから隆三が解説している声が聞こえた。

映画館の中でさ。中止になって、みんな出てきちゃったんだよ。

バカね。

幸恵は依子をそのまま抱きながら、しばらく依子の背中をなでていた。

ヨリちゃんが鼠ごときを怖がるはずないでしょう。

蛇でも仲間になれるヨリちゃんが・・・。

なにかあったんだね?

しばらくして依子が我に返ると、落とした荷物を抱えた里美も、こっくりうなずきながら微笑んでいた。

さあ、とにかく帰りましょうか。

ああ・・私のせいで、荷物が・・・ごめんなさい・・・

ああ、これね。
今度は幸恵と里美は顔を見合わせて笑った。
地元の友達がね。
上の神社でやっていた、「のど自慢」で特別健闘賞で獲得した商品なんだ。
「のど自慢」で、獲得したのは男の子なんだけどね。
でも、商品は、「女物の和服」だ、なんて言うから貰って来たんだけど。

見てみる?

そう言うと、幸恵は荷物の箱を開けて見せた。箱の中には、赤い大きなタオルのようなものが折りたたんであった。

真っ赤な、、、和服?

まあ、確かに「女物の和服」には違いないよねえ。幸恵はそう言いながらその服を案外ぞんざいに広げて見せた。

まるで「ツナギ」のような、赤くて長い丈の服が、依子の目の前に広がった。

なんだかわかる? 

いたずらっぽく里美も尋ねる。

これね。

「女忍者」の衣装なのよ。

いや「九ノ一(くのいち)」と言うべきか。

笑いながら、幸恵が衣装の向こう側から顔を出した。

のど自慢のアトラクションで使った衣装なんだ。なんだかセコイよねえ。
でもおもしろかったんで貰ってきてやったんだよ。

幸恵と里美は顔を見合わせて笑った。
そういえばおかしなアトラクションだったね、あれは。妙な名前の女忍者でさ。

なんだっけ?

その時、突然、突風が吹いた。幸恵の手にした衣装が風でめくれ上がって、依子を呼ぶように広がった。

「ねじ巻依子」と里美が答えた。宣伝してた映画の主人公の名前なんですって。

風で再びあおられて、バタバタと、赤い衣装が大きくはためいた。

その様子はまるで依子に手を伸ばしたかのようだった。