依子(1)−13
搭の上、依子のいる廊下の上方の奥にある上映会場のほうから、女性のアナウンスの声が響いた。
「ご迷惑をおかけしております。申し訳ありませんが、今回の上映は中止させて頂きます。」
依子は片手に拳銃を握ったまま、ただぼんやりとそのアナウンスを聞いていた。
「係の者の誘導に従って、先ほどの入口側から、外にお出になってください。料金は入口窓口で全額返金いたします」
鼠はキーキーと鳴くのをやめた。静かな廊下の上のほう、上映会場から、再び人々が動き出す気配がした。
椅子を引く音。
ドアを開ける音。
言葉は聞き取れなかったが、なにか抗議の声を上げている大人の男の太い声も響いていた。
「君は何者だ?」
今度は、太く、はっきりとした男の声が廊下に響いた。
一瞬、依子には、それは鼠の声のように聞こえ、まだこの奇妙な悪夢が続くのかと身構えたが、鼠は黙り込んでいる様子だった。
鼠は、上半身を起こし、前足を待ちあげて、背伸びをしたようなポーズで立っていた。その視線が、用心深く、依子の背後に注がれているのが分かった。
依子が振り返ると、映写室と呼ばれたドアが開いていた。
その部屋から洩れた逆光の中に、背広の男が立っていた。
君は何者だ?
男は重ねて尋ねた。
まさか、東から来たのか?
それとも、ずいぶん若いところからすると、北からなのかね?
そう言いながら、落ち着いた足取りで、まるで探し物でも探すように、床やスロープの先に目配せしながら、するすると依子に近ずいた。
男は鼠を見つけると、一瞬、その場で立ち止まった。
その鼠に視線を向けたまま、諭すような小声で依子に話しかけた。
その拳銃は、元々、私のものだ。返して貰おう。
呆然とただ立ち尽くす彼女の手から、するりと拳銃を取り上げた。
そして、そのまま銃口を鼠に向けた。
グリップを強く握り、セーフティーを解除すると、引き金を絞る。
きっ、と叫び、鼠がはねた。
はねると、今度は廊下の壁側の手摺を伝って駆け降りた。
鼠は依子の脇を走り抜けると、そのまま白シャツの男が破ったテントの隙間から外に飛び出して行った。
裂けた隙間からのぞく星空の、その闇の中に。
次の瞬間には跡形もなく消えていた。
背広の男が、鼠を追って引き金を絞った銃口からは、パチン、と金属がはじける音がしただけだった。
男は拳銃をポケットにおさめた。
男は鼠が飛び出して行った裂け目から外をのぞくと、鼠の消えた跡を暗闇の中に探しているようだった。
その男の顔を、外側の広場からテントを照らしている投光機の光が照らし出した。
男は、サングラスをかけていた。いや、夜間射撃用のグラスだったか。黄色い、薄い色のついた、奇妙な眼鏡だ。
その眼鏡には見覚えがあった。男は、やはり、依子がこの搭に入った時に、エントランスに立っていた、奇妙な背広の男だった。
今の鼠の動きを見たかね?
男は依子を振り返った。
まるでこちらの動きの意味を知っているかのようだ。ふん。ずいぶん、頭のいい鼠だ。
依子に向き直り、拳銃を懐ににおさめる。
オートマチックは、安全のために1発目は弾を込めないでおく。君は知っているようだったな。それに、あのセリフもなかなかよかった。
「この銃があなたの心臓を狙っていることを思い出すのよ」
男の口元が斜めに歪んだ。
そして、くっくっくっ、と梟の鳴き声のような音を喉から響かせた。
笑ったようだった。
上の上映会場のほうから、再び、女性のアナウンスの声が響いた。
「ご迷惑をおかけしております。
皆さまは、係の者の誘導に従って、先ほどの入口側から、外にお出になってください」
料金は入口窓口で全額返金いたします」
こちらに来たまえ。
男は先に立って歩くと、上映室に依子を手招きした。
外に出れるよ。この部屋の中には下に降りるスタッフ専用の非常階段がある。さあ。
そこのスロープを下って行って、また、さっきのチンピラに挨拶に行く必要もあるまい。
あれは単なる地元のゴロツキだよ。
栗本に雇われている使いパシリさ。
まぁ、見張り代わりにぐらいになるかと思って、私が息を掛けてたんだがね。
男はそう言いながら依子を促した。
心配ない。君の小さなボーイフレンドならば、じきに無事に出てくるよ。
「奴ら」も騒ぎは好まない。
そう言うと、男は先に、上映室と呼ばれた部屋の中へ戻っていった。