依子(3)−5

あの狸。なぁにが追加情報だ。サラがブツブツと言った。

自衛隊が移動車両と補助要員を都合しているわすかの間、彼らは2班に分かれて宿舎に用意された休憩室で待機していた。サラと同じ班なのは内心閉口したが、この件に関しては、依子も同感ではあった。

作戦の概要を最初に聞いた時−それはフィリピンから日本に向か空母の中だったが−「リニア中央線」での通信回線復旧作業の補佐であれば屈強な海兵隊男性隊員のほうが適任であるように依子にも思えた。
それでも彼女らが選ばれたのは、噴火活動中の火山山岳地帯という特殊状況下での実戦演習も兼ねている、というのがその時の説明だったのだが。

どうやら、"鼠"に関する情報が先にあり、このための諜報活動に備えて彼女らが選べれた、そう考えた方が理にかなっている。

難民キャンプでの暴動は同一人物、あるいは同一組織が影で指揮しているに違いない、というのは、彼らの使用した武器の入手経路や、情報伝達のルートの分析から明らかであった。
しかし、どうやらそれが、"鼠"、または"大富豪の鼠"という、奇妙な名前で反政府勢力の仲間たちに呼ばれる民間人らしい、という情報のほかは、米国側には詳細は明らかにされてなかった。
その民間人が日本人らしい、ということも噂として飛び交うレベルのものだった。
そして、この情報開示を拒んでいたものは、日本側の内政事情というよりは、「恥」と呼ばれるこの国独特の観念が作用しているらしいことも米国政府は認識していた。
しかしこの期に及んで、いよいよ業を煮やした米国政府が独自調査を軍に命令した、というのが実際の"ことの次第"ではいか。
"鼠"の背後にいるのは、ミャンマーに逃げ込んだと目され現在まで所在不明の元北朝鮮独裁者なのか、中国なのか、さもなければロシアか。
もっとも作戦の目的を、1隊員が推測するのは、なんの意味もなかったが。

ヨリコ、あの甲府の町は、あなたの故郷ではないのか? 確か、富士山がよく見えた、という。

そう聞いてきたのは、同じ隊員のエレンだった。彼女は、オーストラリア空軍からの留学生であり、立場としては依子と似たところがあった。依子とは仲が良かった。

同じ室内にいた隊員たちの視線が依子に集まった。

そう、エレン。あの灰かぶりの町は、ハイスクール時代を過ごした町だ。もっとも、あれでは面影もないけれど。

とんだ帰還だね、そりゃあ。サラが特に同情する気配もなく感想を述べた。

しかし、戦車に乗って故郷に帰る、ってのは、悪くない気分かな。

サラ、もうちょっと言葉に気をつけろ、とエレンが詰め寄ったが、依子は、エレンを制した。

依子は、本当のところ、あの町の姿にそれほどショックを受けていなかった。

これは彼女自身も不思議だった。

多分、それは、あの地で生活していた頃、一緒にいた祖母が幾度となく言っていた言葉のせいかもしれない。
「ここいら辺は、みんな富士山の火山灰で出来た土地なんだよ。土が肥えるのは昔から積もった灰のおかげなんだ」

その言葉は、今のこの状況が、何千年の間幾度となく繰り返されてきた風景なのだということを告げていた。これが自然の姿なのだ。
埋もれた人間の町こそ、ただの新参者なのだ。

しかし、依子は、高校時代を過ごした、甲府の中心街を思わないわけではなかった。
そこではよく級友たちとウィンドウショッピングを楽しんだ。
街角にあるペットショップで子犬や子猫をあきもせず眺めた。
小さな古本屋で本を探し、映画館で映画を見て、喫茶店で取り留めのない噂話に興じた。
そして、故郷の葡萄畑を思った。
坂道を下る葡萄畑のための水路の、清々とした水の音を思った。
そして、
そうだ、
栗本重工株式会社。
依子のいた勝沼の町はずれに、大きな洋館があり、そこが「栗本のお屋敷」と呼ばれていた。そこが栗本グループの会長の家だと聞いたことがあった。
あまり地元の評判は良くなかった。
依子の祖母も嫌っていた。
昔、なにか他人の土地に毒をまいて、その土地を奪い取って事業を拡大した、というような、妙な噂が残っていたような・・

その時、ふいになぜか、"大富豪の鼠"という奇妙な名前が突然、その回想の映像に重なった。
「変な名前」と頭の中で声がした。それは、自分の声だった。
「"ねじ巻依子"、なんて」その声は笑いを含んでいた。

「仮眠を取るものは、グレープシティからログオフしておけ。君らの夢まで記録したくなければ」

唐突に、マギー中尉の言葉が頭に響いた。これで依子はちょっと混乱した。
さっきの言葉は、外部からの声だったのか。脳内に直接来たのか。
あわてて周りを見回しても、隊員たちは皆、あてがわれたベッドで思い思いに過ごしていた。

それにしても「ねじ巻依子」って。
なんだろう。
そんな奇妙な「あだ名」で自分は呼ばれた覚えはない。

呼んだのは、自分の声のようだった。
ポッドからの電波が混信でもしたのか。

それで、ふと、ポッドから降下の後に表示して、そのままにしていた右腕の液晶画面のことを思い出した。
画面表示はOFFされていたが、軽く触れると、再度、文字は表示された。
ヘブライ語もどきの翻訳結果が表示されていた。

「水晶塔を見つける者を探せ。

 知恵の木を飲みなさい。

 その恐れる葡萄の黄泉を封印するのです」

ヘブライ語ならば、ラーモン少尉に聞けば、なにか分るかも知れない。
彼はイスラエル出身だったはずだ。
でも、なんて聞けばいいのだろう?
こんなことを?

依子はその画面を閉じた。

しかし、思い直して、また表示させて眺めて、

気まぐれに、大富豪の鼠、栗本重工業、ねじ巻依子、とその下に記入してみた。

 水晶の塔。

 知恵の木。

 葡萄の黄泉。

 大富豪の鼠。

 栗本重工業。

そして、「ねじ巻依子」。

なんだか脈絡のない夢の中で聞かされたような言葉の羅列のようだ。
そして自分はその夢の中に向かっているような気がした。

依子はログオフし、しばらく目を閉じてみることにした。
頭の中に想像のノートを開き、ログオフメッセージを書き込んだ。

「ログオフします」ヘッドセットから、アナライザの言葉が返答した。

「ペリーローダンシリーズはいかがでしたか?、ヨリコ。 あの話は私も大好きです。おやすみなさい」

なにを言ってるんだ、アナライザめ、機械の癖に、寝ぼけてるのか。

だが、そう思った次の瞬間には、依子は滑り落ちるように眠りのなかに落ちていった。