依子(2) 捜査(28)

若い男は部屋の奥から依子の前に再び姿を現した。

「これも多分前の人の忘れものです。クローゼット片づけた時に見つけたんすよ」そう言いながら差し出した男の手に文庫本2冊が持たれていた。

依子は何も言わず受け取った。

「伝言入れただけだったんで取りに来ると思ってませんでしたよ。こっちもあんなに貰っちゃったしねえ、」

若い男は「じゃあもういいですかね。ひと通り探したけどもうこれでおしまいですよ。俺ももう出ますんで」と言いながら、ろくに依子に話をさせる暇さえ与えずに今度はドアを閉めた。

話の流れから、この若い男が前の住人柏木らしき人物と顔見知りではないこと、

何者かが前にもこの部屋から柏木の残していったものを持ち去ったこと、

それに対して多額の謝礼金をお男に渡したらしいこと、

そしてさらに何かが見つかった場合には連絡をしてほしい、と頼んだらしいこと依子にも分かった。

しかし推測だけで判断して強引に話を続けてもは怪しまれてしまうだけのように感じた。依子は何も言わないまま、ここは仕方なく引きさがる他なかった。

その場から離れながら確かめると、受け取った文庫本のうち1冊は小説だった。ブルーの手製らしい布カバーで覆われている。「ダブリンの市民」ジェイムズ・ジョイス

もう一冊はよく見ると、文庫よりも一回り大型の薄い英語の本だった。表紙は堅いしっかりとした紙質でできている。こちらにはカバーがかけられていなかった。

”Lectures on Quantum Mechanics"。PAUL A.M.DIRAC


アパート前の調整池の土手へと続く遊歩道を注意深く伺いながら依子は自分のバイクへ向かった。

周りにはまだまばらに通行人が居た。今日もよく晴れた気持のよい1日になるでしょう。そんな言葉以外、思いつかないような平和な風景に見えた。

バイクに着き、依子は受け取った2冊の本を脇に吊るしたバックに入れようとして、ふと、薄い英語の本から白い紙きれが出ているのを見つけた。
栞にしては大きいようだ。つまんで引き出すとL判の1枚の写真が出てきた。

写真には、3人の人物が映っていた。

左側の一人はずいぶん若いが、間違いなく柏木和美本人だった。笑っている。

真中には、金髪で、ふっくらした頬の女の子がこれ以上にないような笑顔を見せている。まだ10歳程度だろう。

右側には初老のように見える髪の薄い痩せた金髪の男が映っていた。やはり笑っているが、どことなく抑制された笑顔に見える。その理性的な佇まいが学者を思わせた。

真中の女の子は、両側から2人に抱かれ、青空と海の間に掲げられていた。

3人は水着で、海に踝程度まで浸かっていて、白い綿菓子のような波しぶきに囲まれていた。波しぶきは祝福のために3人を囲んでいるかのように見えた。

依子はしばらくその写真の魅力から目が離せなかった。


写真の裏には「Hawaii/2001/kazu.Wilde」と走り書きのような署名があった。

"kazu.Wilde"は、"和美.wilde"だろうか。真中の子供が彼女の娘だとしたら男のほうは年が離れてはいるが柏木和美の夫に違いない。

つまりこういうことだ。
女優のフィルムとともに姿を消した介護士、柏木和美は、おそらく国際結婚しており、本名は"和美.wilde"で愛読書はジェイムズ・ジョイス。夫はアイルランド人なのかもしれない。
そして量子物理学の創設者の一人である科学者が書いた英語の講義録に家族の記念写真を挟んで保管していた。

彼女が女優の傍に居たのは、介護のためだけではないのは確かなようだ、と依子は考えた。